すみだ郷土文化資料館【編】隅田川の伝説と歴史 東京堂出版より
梅若伝説
子宝に恵まれなかった京都北白川の吉田少将これふさ・美濃国野上長者の一人むすめ花御せんの夫妻は、日吉宮に祈願して梅若丸を授かった。五歳にして父と死別した梅若丸は、七歳の時、比叡山月林寺へ入り、彼ほどの稚児はいないとの賞賛をうける。
これを妬んだのが、松若殿という、やはり評判の稚児のいる東門院の法師たちである。彼らに襲われた梅若丸は、山中をさまよったのち、大津の浜で信夫の藤太という人商人にかどわかされ、奥州へと向かう。
しかし途中、隅田川のほとりで病に倒れ、里人たちの看病のかいなく帰らぬ人となった。貞元元年(976)3月15日のことで、梅若丸はわずか12歳であった。その折、たまたま来あわせていた忠円阿闍梨という貴い聖が里人と墓をつくって柳を植えたという。
さて、わが子の行方を探し求めて、狂女に身をやつした母親が隅田川に到り、渡し守から梅若丸の死を知らされたのは、翌年、ちょうど愛子の一周忌のことであった。
その夜、悲しみにくれる母も加わって大念仏が催されている最中、一日でもとの母の思いが通じたのか、墓の中から梅若丸の亡霊が現れた。
しかし、それも束の間、再びその姿は消え去っていた。こののち墓のかたわらに庵室が営まれ、梅若丸の母もそこで暮らしていたが、結局、浅茅池に身を投げてしまう。
すると不思議にも亀がその遺体を乗せて浮かびあがってきた。そこで忠円阿闍梨が墓を建て、妙亀大明神として祀った。一方、梅若丸は山王権現に生まれ変わった。
東部伊勢崎線の鐘ヶ淵駅で降りて、隅田川の方向を見ると巨大な高層建築群みえてくる。この一帯は、かつての鐘淵紡績会社(現カネボウ)の跡地であり、江戸時代には「関屋の里」として広重らが描いた景勝地であった。現在は東白鬚防災拠点となっている。
防災拠点を目指し、堤通りにぶつかったら団地群に沿うように歩くと榎本武揚の銅像が見える。
この地が防災拠点建設以前に木母寺があった場所である。
そして、銅像の背後、建物に沿うように「梅若塚碑」と記した小さな石柱が建っている。この地がかつて「梅若塚」があった場所である。
石碑の横のゲートをくぐる。
東白鬚公園に出ます。
現在の木母寺
近代的に新装された木母寺
梅若堂
境内には、梅若丸を祀った梅若堂が震災・戦災の難を逃れて現存している。
梅若塚
天下之糸平の碑
碑の裏面には渋沢栄一の名もあります。
【女もの狂い】
【悲母渡河】
【塚前回向】
何だか怖い
葛飾北斎 梅若の秋月
帰ります