1月24日
走った距離:10.5km
平均ペース:5分21秒/km
VO2Max:50
気温7℃ 北風強く寒い🥶
1月25日
走った距離:10.5km
平均ペース:5分21秒/km
VO2Max:50
気温9℃ 北風強く寒い😨
1月24日
走った距離:10.5km
平均ペース:5分21秒/km
VO2Max:50
気温7℃ 北風強く寒い🥶
1月25日
走った距離:10.5km
平均ペース:5分21秒/km
VO2Max:50
気温9℃ 北風強く寒い😨
両国橋へ行きます。
両国
忠臣蔵 赤穂浪士休息の地
元禄十五年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。
これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。
吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。
休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
葛飾北斎⑤ 両国納涼 一の橋弁天
隅田川テラスに出ました。
カモメがいっぱい
右側の橋は、両国橋(修理中)
水上バスの墨田区役所前のりばから、歩いて帰宅します。
大川橋(吾妻橋)
池波正太郎の作品では大川橋で、様々な事件が起こります。『剣客商売』の「暗殺」では、秋山大治郎と御用聞き四谷の弥七が、橋上で旗本・杉浦丹後守に雇われた浪人たちに襲われます。
勝安芳(海舟)像
葛飾北斎⑯ 大川橋の月小梅の泊船
隅田公園 散策解説板①
江戸時代の墨堤 江戸随一の観光名所
言問橋
隅田公園 散策解説板②
江戸時代の墨堤 墨堤の花見
隅田公園 散策解説板③
隅田公園の開園 日本初のリバーサイドパーク
隅田公園 散策解説板④
開園当初の隅田公園 写真に見る昔の隅田公園
水仙
鬼平情景 みめぐりの土手
『鬼平犯科帳』の「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手の三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。
葛飾北斎⑮ 新板浮絵 三囲牛御前両社之図
三囲神社
桜橋
軍鶏なべ屋・五鉄から煙草屋・壺屋へ
鬼平情景 煙草屋・壺屋
勝海舟生誕之地(トイレ休憩)
吉良邸跡(本所松坂町公園)素通りです。
ボランティアガイドさんが、当時の広さはサッカーのグランド一面の広さが有ったと説明してくれました。
旧国技館跡
旧国技館は、回向院の境内にありました。
水上バスに乗る時間調整で、両国駅前の江戸のれんに行きました。
江戸のれん内の土俵
名物 東京軍鶏親子丼
両国国技館
両国リバーセンターから墨田区役所前のりばまで、約1時間水上バスに乗りました。
ここで解散、無料でした。
一之橋
忠臣蔵 一之橋
幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
万治二年(1659)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほど、ありました。
竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。
尾張屋清七板 江戸切絵図
すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎が描いた風景をたどろう
7️⃣本所立川ー冨嶽三十六景ー
富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、竪川の北側(旧相生一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。
北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。
右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弍丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(冨嶽三十六景)の宣伝がさりげなく入っています。
竪川と軍鶏なべ屋・五鉄
ボランティアガイドさんが、うなぎの蒲焼の由来を説明してくれました。
うなぎのぶつ切りを串に刺して焼く様子が、蒲(がま)の穂に似ているから『がま焼き』→『かば焼き』に転じたというのが定説らしいです。
高速道路に覆われてしまった竪川(たてかわ)
竪川は、墨田区及び江東区を流れる人口河川。
江戸城に向かって縦 (東西)に流れることからこの名称になった。
旧中川と隅田川を結ぶ運河である。
ニ之橋
東京名所四十八景 本所三ツ目橋より一ツ目遠景 昇斎一景(明治4年)(後日撮影)
にのはし 現在のニ之橋(後日撮影)
万治二年(1659)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。
その二つ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどありました。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、ニノ橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。
鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗り付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
軍鶏なべ屋「五鉄」
五鉄の有った場所(後日撮影)
小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は竪川」とあるように、この辺りだと推定されます。
鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。
その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。
熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。
しのはし(後日撮影)
四ツ目橋の有った通りが、四ツ目通りなんだ
1月22日、墨田区主催の池波正太郎まちあるきに参加しました。
池波正太郎まちあるき
錦糸町駅から、長谷川平蔵の旧邸へ
鬼平情景
長谷川平蔵の旧邸
付け火が元の明和9(1772)年の目黒行人坂の大火は約1万5千人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。
その下手人を捕えたのが、平蔵宣以(のぶため)の実父、長谷川平蔵宣雄(のぶお)です。
この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌、安永2(1773)年6月に客死してしまいました。
家督を継いだ平蔵宣以は天明7(1787)年、42歳の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。
京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。
義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し、本所・深川を根城に「入江町の銕(てつ)」又は「本所の銕」と呼ばれ、後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。
竪川(高速道路の下)と、大横川(前方から後ろ方向)(後日撮影)
大横川の北側は、親水公園になっています。(後日撮影)
走った距離:10km
平均ペース:5分36秒/km
VO2Maxは、今日も50だった。
気温7℃ 寒かった
朝 猿江恩賜公園
この前と反対側が、凍っていました。
走った距離:10.6km
平均ペース:5分37秒/km
VO2Maxは、5日ぶりに50だった。
気温12℃ 風もなく暑かった。
夜 ミスド
ポン・デ・ゴールデン&ストロベリーと、カラフルホワイトフレンチ
走った距離:10.6km
平均ペース:5分38秒/km
気温6℃ 北風が強く寒かった。
朝、猿江恩賜公園 氷が半分くらい張っていた。(手前側が凍っています)
天台宗 龍眼寺
迷わぬ者に悟りなし
東京スカイツリー
夜 4種のチーズケーキ
場所は、いつもの「あずまの里」が取れなかったとのことで、隅田西町会会館です。
酒屋の岩田屋さんの配達のバイクが停まっています。
会費2,000円 出席者は15人です。
墨東走友会は、今年創立50周年です
ワインは、ほとんど一人で飲みました
記録 21分38秒
ラップ1:4分09秒
ラップ2:4分22秒
ラップ3:4分24秒
ラップ4:4分24秒
ラップ5:4分18秒
平均ペース:4分19秒
参加者5人、K沢さんに次いで2番だった。
2023年5月記録会は、21分50秒でした。
スタート・フィニッシュ地点の、木根川橋下
走った距離:11.6km
平均ペース:5分51秒/km
ラップ3 4分33秒/km ラップ4 4分23秒/km
VO2Maxは、50だった。48・49・50・51でもフィットネス年齢は同じ20歳だけど、なるべく大きい数値になるように走りたいと思っている。
VO2Max:最大酸素摂取量
気温11℃ 穏やかだった。
朝、猿江恩賜公園
キンクロハジロは、学習したのか寄って来なかった。
夕方、雷雨になりました。