タケホープの酔いどれ走遊記Ⅱ

アラカンの酔いどれランナーの実にくだらない日記
20数年ぶりのサブスリー復活を目指します。
禁酒しなきゃ無理⁉

広島城跡 二の丸表御門

2024年11月28日 | 城・城跡

ほれぼれする石垣ですね

 

御門橋 表御門 平櫓 多聞櫓 太鼓櫓

 

史跡広島城跡

 

二の丸表御門(復元)と同行三人

 

史跡広島城二の丸表御門(復元)

規模 桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、軒高 7.03m、棟高10.61m

構造 木造脇戸付櫓門、入母屋造、本瓦葺、軸部真壁、軒塗籠、両側面一間庇付

 表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失まで約350年間存続していました。

 現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。

 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、消失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。

 

平成3年12月   広島市教育委員会

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沼田城

2024年09月14日 | 城・城跡

沼田城絵図

 この絵図は、江戸幕府三代将軍家光が正保年間(1644〜1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏四代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。

 

天守跡・大手門沓石

 

真田信之像 小松姫像

 

像の台座上には、一円玉で作られた六連銭(むつれんせん)

 

沼田城の金箔瓦

 昭和60年に行われた公園内の改修工事の際、多量の瓦が出土した。これらの中から金箔が塗られた瓦が発見された。

 金箔瓦は、豊臣秀吉が築いた大坂城で多用されたが、豊臣一門やそれに準じる大名の居城、また秀吉子飼いの大名の居城でも出土している。

沼田城周辺では、上田城、小諸城、松本城からも発見されている。

 

鐘楼

 

信之と小松姫

 

本丸跡

 

本丸堀跡

この堀跡は本丸から二の丸の間に作られたもので、堀幅12間(約24m)×堀高3間(約6m)と正保城絵図に書かれています。

 

 

沼田公園

沼田城跡 完

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沼田城跡 天狗堂

2024年09月13日 | 城・城跡

天狗堂

 

天狗面

 

天狗面の由来

このお堂にある天狗面は、昭和34年に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会が製作した。顔の長さ3m、顔の幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る。

同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。

天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。

今日はここまでです

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沼田城跡の御殿桜 平八石 ビューポイント

2024年09月12日 | 城・城跡

御殿桜

西櫓台の石垣上に大きく枝を張る桜の木が、エドヒガンザクラです。「御殿桜(ごてんざくら)」という愛称で沼田市民のシンボルになっています。

 

平八石(へいはちいし 首さらし石)

沼田平八郎景義は、沼田氏十昭康顕泰と側室の間に生まれました。沼田氏内乱で越後(一説では会津)へ逃れた平八郎は流浪の末、東上州女渕で再起の機をうかがい、天正九年(1581)、沼田氏再興の兵を起こし、再興を目前に叔父の金子美濃守などの手によって水の手曲輪の露と消えた。

平八郎の首をさらした石が今に残ります。

 

ビューポイント

谷川岳や武尊山、三峯山、戸神山などの山々を眺めることができます。

また、名胡桃城方面も見る事ができます。

 

あの辺が、名胡桃城址

 

 

三峰山

 

 

高王山の砦 戸神山

今日はここまでです

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沼田城跡 西櫓台の石垣・石段

2024年09月11日 | 城・城跡

鐘楼(しょうろう)

鐘楼は、明治31年頃旧沼田町役場の裏手に建てられ、時を告げていましたが、昭和58年に公園に再建されました。

城鐘は2代藩主真田信吉が鋳造し、時を告げていましたが、現在はレプリカを用いており、実物(県重文)は沼田市歴史資料館(テラス沼田2階)に展示しています。

 

オミナエシ

 

 

真田氏時代 沼田蔵内城

 

 

沼田城跡西櫓台の石垣・石段

 天文年間(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591~1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。

 

石段

 

 

石垣

築城時代は熊本城と同じ頃だと思うが、熊本城と全然ちがいますね。

石垣だけなら島根県の津和野城のほうが見事です

 

違った⁉

1681年真田氏の改易によって、城は壊されて、その後本格的な復興はなされなかったんですね。でも真田氏時代の遺構だし。

絵は想像が多い⁉

 

蛇足:雑誌「歴史道 最強の山城ベスト50」より

土塁や空堀などが築きやすい土壌が広がる!東日本

東日本の土壌は粘土質が多く、土塁や空堀が築きやすく崩れにくい。そのため石垣で補強する必要がなく、土の城が多いとされている。

石工の技術が高く石積みの城が発展した西日本

城の周辺に石の産地が多く、さらに穴太衆などの職人集団の存在により石積みの技術が発展。そのため西日本では石垣の城が多い。

へー

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真田信之 小松姫

2024年09月10日 | 城・城跡

真田信之

 父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(天正13年)では、信之はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦上手ぶりであった。

 

小松姫[天正元年(1573年)-元和六年(1620年)]

本多忠勝の娘。

天正十五年(1578年)3月に秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを契機に、小松姫と信之との婚姻が成立した。

 

 

子持山

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北条五代

2024年09月08日 | 城・城跡

北条五代 火坂雅志 伊東潤

「義」を重んじる武将を取り上げ、日本社会に一石を投じた火坂雅志。

歴史を通して現代的なテーマを描いている伊東潤。

志半ばで倒れた火坂の思いを伊東が受け継ぎ、現代人が共感できる新たな北条早雲を生み出した。

       末國善己氏

 

我欲が強かった戦国時代に「義」という理想を掲げた北条家は、五代百年にわたって名将を出し続けた。

その理由を独自の視点で切り取る本書は、日本の閉塞感を打ち破り、未来を切り開くためのメッセージに満ちている。

       末國善己氏

 

北条の家臣が名胡桃城を奪ったのは、秀吉の罠だったのですね

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久米民之助(くめたみのすけ)翁

2024年09月07日 | 城・城跡

沼田公園 天空の城下町 真田の里 沼田 沼田城址

 

沼田上の歴史

 天文元年(1532)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。

【上杉氏の支配】

【北条氏~真田氏支配】

【滝川氏城代】

【真田氏城主】

 

沼田城跡

 天正八年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。

 

沼田城址

 

沼田公園(沼田城跡)

 

沼田公園寄贈者

久米民之助《1961-1931

 旧沼田藩士の子息久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に上京し工部大学校(現東京大学)に入学、卒業後宮内省に入り二重橋の造営などにあたった。

その後数々の事業を興して成功を収め、衆議院議員も務めた人物です。

 現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをしたいと考え、私財を投じて荒れ果てた城址を購入し大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2ヶ年に亘り造営工事を行い大正15年に沼田町に寄贈されました。

 さらに、東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の意志は現代に引継がれ、市民や観光客など多くの人に憩いの場として親しまれています。

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群馬県指定史跡 名胡桃城址

2024年09月04日 | 城・城跡

群馬県指定史跡 名胡桃城址

 

 ここ名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。

 この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広げられていましたが、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城(さかいめのしろ)として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。

 天正17年(1589)、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原城北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果たしたのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。

 

発掘調査

西側の広い般若郭は駐車場になっています。

 

名胡桃城址全景空撮

 

名胡桃城址

 

名胡桃城址案内所で御城印を買いました。

案内所でたくさんパンフレットをもらいました。

 

帰ります。行きで気がつかなかった石仏群

 

徒渉橋から名胡桃城址を振り返ります。

 

飲みながら帰ろう

 

後閑駅

 

高崎駅で補給

名胡桃城址 完

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名胡桃城址 ささ郭

2024年09月02日 | 城・城跡

本郭からささ郭へ行こう

 

ささ郭

 ささ郭とは、城の主体になる本郭が外に対してむきだしにならないように設けた郭で、唯一この城跡に残存する土塁を両側にもつ狭長な通路でした。ささ郭の先端側には袖郭(そでくるわ)と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。

 ささ郭は長さ約31m幅約14mで、中央には約1m掘り込んだ幅2〜5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁で挟んでいました。通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3〜4段乱雑に積んだ石積みがみられます。

 本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画されていました。

 現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のため埋め戻されてみられません。また、ささ郭堀切に設置した階段通路は当時の復元物ではありません。

 

イラストマップ

次回は、沼田城址に行くじょう

 

三峰山のやまなみがきれい

今日はここまでです

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名胡桃城址 本郭

2024年09月01日 | 城・城跡

二郭から本郭へ行こう

 

本郭

 名胡桃城址は、大正12年に地元の有志で結成された保存会によって、よく保存管理されてきました。昭和2年、本郭に「名胡桃城址之碑」を建立し、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させました。この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰であり、文字の彫りも深く見事で、石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たち総出で運び建てました。隣の副碑は、昭和43年の明治百年記念で建立しています。

 本郭は長さ約51m幅約30mの洋梨形ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことがわかります。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。この城には天守はなく、本郭内の虎口や建物の状況はわかっていません。

 

東側

 

名胡桃城址之碑

 

石材を切り出した「地元の富士山」?

この方角に「冨士浅間の砦址」があるみたい。そのうち行ってみたい。

国道17号の橋が見えます。ということは、橋から見えた幟旗はここ本郭のものだったのですね。

今日はここまでです

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名胡桃城址 二郭

2024年08月31日 | 城・城跡

二郭(にのくるわ)

 

二郭 説明板が途切れていて全部読めない。ラッキー⁉

 

三郭側(北側)

 

南虎口 右側に見学台があります。行かなかった。

 

二郭北虎口(にのくるわきたこぐち) 説明板が光っていて全部読めない。ラッキー⁉

今日はここまでです

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名胡桃城址 二郭南虎口

2024年08月30日 | 城・城跡

三郭から二郭南虎口(にのくるわみなみこぐち)へ行こう

 

二郭堀切 西側

左側が三郭で、堀切法面の傾斜は45度

右側が二郭で、堀切法面の傾斜は55度

 

二郭堀切 東側

 

二郭南虎口

 虎口とは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。

 この二郭南虎口は、二郭の中が直接見透かされないよう、郭内の建物敷地より一段高い位置に造られています。二郭堀切は幅11~13m深さ5.5~7mで、堀切法面の傾斜は三郭側が45度二郭が55度と角度を変えて掘られています。

また、二郭堀切は直線的に設計せず、掘幅半分ずらして掘られています。堀切・土塁・門により左右に曲がりながら進入する敵を、正面や横方向から攻撃できるこの防御構造を喰い違い虎口と呼びます。

虎口周辺の土塁基底部内側には、2~5段の川原石の乱石積みが残っています。二郭堀切の土橋は薬研形に掘り切られ4本の脚柱による木橋を設けていました。土塁に挟まれた4本の掘立柱による門址は、北虎口の礎石門と同じ規模です。

 

虎口と喰い違い虎口

 左側の模式図は、虎口の的山(あづち)土塁を設けることにより、外から郭内部を見られないようにするとともに簡単に進入させないため工夫されていますが、掘や土塁が直線上に造られていることから、進入してくる敵に対して正面からの防御しかできません。

 右側の模式図は、堀と土塁の位置をずらし筋違いに造られていることから、郭の外から門へ続く通路が折れてクランク形になり直に入れなくなります。

土塁上からは正面の敵を防御することができ、門の手前では横方向からも攻撃することができ、敵の侵入を防ぐことができます。

これを「横矢掛け」といい、このような構造を「喰い違い」とよびます。

今日はここまでです

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名胡桃城址 三郭

2024年08月29日 | 城・城跡

馬出から三郭(さんのくるわ)へ行こう

 

手前側が三郭跡

 

三郭

 三郭の規模は約64×26mで、東西に長い郭です。外郭との間の堀切は幅約12m深さ5〜7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ延びています。

 二郭堀切の土橋外側で幅約3m深さ約1.5m薬研形の三日月堀が検出されたことから、築城当初ここは三郭でなく、馬出があったことがわかりました。その後、三日月堀を埋めて郭や堀切などを新設する大改造を行なっていますが、ここは大きな馬出郭であったとも考えられます。

 郭の西側と南側には石列が残り、基底幅5〜6mの土塁がありました。新たな馬出とつながる土橋は掘り切られていて、再び後世に盛り土されています。追手(おうて)としての虎口には門、郭内には時期の異なる3棟の掘立柱建物がそれぞれ建てられ、そのうち建物1棟と浅いL字溝を組み合わせた施設が、三日月堀を埋め立てた後に作られています。

今日はここまでです

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名胡桃城址 馬出

2024年08月28日 | 城・城跡

名胡桃城址

 

 

旨出汁じゃなかった、馬出(うまだし)

国道17号線沿いのいい物件ですぜ、ダンナ

外郭と水の手が、国道によって分断されてしまっているじゃないか!

 馬出とは、城の出入口の外側に堀や土塁で造った防御・攻撃施設で、発達し大型化すると出丸とも呼ばれ、特に大坂城に真田信繁(幸村)が築いた「真田丸」が有名です。

 名胡桃城では、三郭虎口の外側に径20m程の円形の馬出堀(三日月堀、現在は埋まっています)を深さ約1.2mの平底に掘り、その内側に半円形の小高台を残し馬出としています。馬出と外郭の間は、馬出の西側に橋受溝を掘り外郭側に基壇を設け、長さ約8mの木橋を架け渡して、直線的に進入できないようにしています。また、三郭と馬出をつないでいた土橋の一部を掘り切って、長さ約5mの橋に架け替え補強されたこともわかりました。馬出の西から南側縁辺にはひな段のような段差が廻っています。

 西側の堀切は般若郭との殿坂を通って崖下へ、南側は外郭と湯舟沢の間にある水の手につながっています。

 

まるだし じゃなっかた 丸馬出と角馬出

今日はここまでです

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