朝ごはん
朝食会場から、原爆ドームが見えます。
広島の宿 相生
一人で散歩に行きます。
原爆ドーム
ジョガーが走っています。
右側が爆心地
続きます
朝ごはん
朝食会場から、原爆ドームが見えます。
広島の宿 相生
一人で散歩に行きます。
原爆ドーム
ジョガーが走っています。
右側が爆心地
続きます
ヒロシマ平和祈念ツアー 核兵器廃絶と永久平和を願って
9月22日 創作浄瑠璃「広島に咲く希望の花カンナ」
野澤松也師匠の創作浄瑠璃「広島に咲く希望の花カンナ」上演
カンナ
「75年間草木も生えない」と言われた広島で1945年の秋、新しい命が芽吹きました。生命の気配さえ失われた大地に緑がよみがえったのです。新しい命から人々が取り戻したのは、生きる勇気と希望でした。
夕食後に野澤松也師匠のお話を聴きました。
野澤松也師匠は、広島市生まれの広島市育ちです。若く見えますが70歳ぐらいです。すごく苦労されたようですが、それを微塵もみせません。師匠のお話を聴けて今回のツアーは、とても感慨深いものになりました。
おりづるタワー12階の"おりづる広場“では、高さ約50mあるガラスでできた「おりづるの壁」に願いを込めて折った鶴を投入する体験ができます。
7階ぐらいまできています
ヒロシマ平和祈念ツアー2日目午後の訪問地は、広島市役所旧庁舎資料展示室で終わりです。
宿までバスで戻って時間がまだ早いので、タケホープは広島城へ行くと細君に言ったら細君も行くと言う。細君の友達も行くことになって結局、男二人女二人で広島城へ行くことになりました。
宿からすぐにこんなのが、ありました。
G7広島サミットパートナーズ・プログラム記念植樹
この樹木は、広島市役所で被爆したソメイヨシノから採取した枝を接木して育てたものです。G7広島サミットのパートナーズ・プログラムにおいて、平和への願いを込めてピースプロムナードにこの樹木を植樹することにご賛同いただき、配偶者の皆様から署名をいただきました。
岸田裕子内閣総理大臣夫人
ブリッタ・エルンストドイツ連邦首相夫人
ハイコ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長夫君(ふくん)
ジル・バイデン米国大統領夫人
アクシャタ・マーティ英国首相夫人
以上5人の署名はあります。
欧州理事会議長夫人、イタリア共和国首相夫君、カナダ首相夫人、フランス共和国大統領夫人の4人は、いないのか賛同していないのか不明です
ヒロシマ平和祈念ツアー2日目午後の訪問地は、広島市役所旧庁舎史料展示室です。
広島市役所 日曜なので閉まっています。
安心してください。
旧庁舎資料展示室は、手前の地下でした。
昭和3年に建設された旧庁舎も、原爆により赤黒く焼けただれ廃墟と化しましたが、戦後、幾度かの改修により装いを整えながら広島市の復興・発展を見守ってきました。そして、昭和60年の建て替えを機に、原爆被災時には市役所配給課の倉庫として被爆後の被災者救援活動に重要な役割を果たし、また、壁には行き先の知れない家族や知人への伝言が書き残されていたという地下室の一部を旧庁舎資料展示室として改修・保存することとしました。
この展示室は、広島市の復興や被爆者救護活動に心血を注がれた先達の労苦の跡をはじめとして、戦前・戦後の庁舎の姿を写真や模型等で展示し、旧庁舎の被爆した石段や敷石などを使って原爆による悲惨な体験を後世に伝えるとともに、広く平和の尊さを訴えるための記念施設です。
被爆したタイル・縁石
●
■開館時間 8:30~17:15
(8月6日は18:30閉館)
■休館日 12月30日・12月31日
■入館料 無 料
広島風お好み焼きのルーツは、大正時代に関西地方で誕生した「一銭洋食」だと言われています。
これは水で溶いた小麦粉を薄く伸ばして焼き、その上にネギや粉がつおなどの簡単な具を乗せ、それを半分に折ってソースをかけて作られた物で、主に子ども向けのおやつとして駄菓子屋で販売されていました。
1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下されました。
終戦後、食糧難を救うためにアメリカ軍による配給で多かったのは小麦粉で、かつては子ども向けのおやつだった「一銭洋食」をベースにした料理を作ることを始めました。
お好み村
古田正三郎村長之像
広島お好み村 おこむくん おこみちゃん
お好み焼き
てっ平に行きました
3F お好み村 入口
新天地地蔵尊
シュモーハウス
米国のフロイド・シュモー氏は、広島・長崎の原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動を進めました。
この建物は、1951年(昭和26年)に集会所として建てられ、地域活動の拠点として活用されてきました。
2012年、被爆後の広島に寄せられた海外からの支援を伝える、広島平和記念資料館の附属展示施設となりました。
運営スタッフのお一人が、原爆の子の像の建立のきっかけとなった佐々木禎子さんと同級生だったと話されました。
広島高速3号線
急傾斜地崩壊危険区域
江波二本松地区
道路建設のため、現在地に少し移動させたそうです。
広島の家
スタートした計画 1948〜49年
皆実町 最初の建設 1949年
江波皿山ふもとでの建設 1950〜52年
広島平和祈念ツアー2日目の最初の見学地は、おりづるタワー
おりづるタワー
原爆ドームに隣接する複合商業施設。屋上展望台“ひろしまの丘”は、心地よい風を感じながら、広島の街を望むことができる。
晴れた日には、周囲の山並みや宮島まで見渡せ、観光客に人気。
12階の“おりづる広場”では、高さ約50mあるガラスでできた「おりづるの壁」に願いを込めて折った鶴を投入する体験ができる。
屋上展望台“ひろしまの丘”より 元安橋 広島平和記念資料館
ヒロシマ平和祈念ツアーの集合写真
平和記念公園
相生橋
エディオンピースウィング広島 県立総合体育館 ヒロシマゲートパークプラザ
リーガロイヤルホテル広島
屋上展望台の天井
広島城
ヒロシマゲートパークプラザ
広島城
バスセンター
2045 NINE HOPES
WALL ART
おりづるの壁
建築家 ヤン・レツルと世界遺産
爆心地/外科 島病院
爆心点 上空600m
爆心地方向
平和記念公園
産業奨励館
WALL ART
エディオンピースウィング広島
WALL ART
WALL ART
POST 郵便は世界を結ぶ
元安川 川面に行けるんです。
船乗り場
・ひろしまリバークルーズ
・世界遺産航路
・WATER TAXI
原爆ドーム
広島市道路元標(広島県里程元標)
宿に到着しました。
9月22日 朝の散歩@ひとり
平和の門
高さ9m、幅2.6m、奥行き1.6mのガラス製の10基の門が、75mにわたって平和記念資料館の柱と平行に立ち並びます。
「平和の門」は、歴史を越え、未来に向かって開かれた記憶と希望の「かけはし」を表現しています。
門とその足元の敷石には、世界49カ国の言語で「平和」の文字が刻まれています。
春日形石灯籠
平和大通り(通称:100m道路)
1月に行われる都道府県対抗男子駅伝のスタート・フィニッシュ地点ですね。
平和記念公園
この地域が平和記念公園になったのは、次の理由からである。
1.爆心地に近く、多数の犠牲者を出した地域であること。
2.二つの川にはさまれ、臨水公園として適地であったこと。
この公園は、原爆ドーム(旧産業奨励舘)を北の頂点とし、南へ平和の灯、原爆慰霊碑、噴水が一直線上に、しかも左右同型に配置されている。
広島平和記念館(本館)
平和大通り
平和大通り
平和大通りの緑豊かな木々は被爆直後に「75年間は草木も生えない」とも言われた広島の復興と平和の象徴です。
供木運動とは
平和大通りの整備が始まった頃の広島市は、財政難で思うように木が植えられませんでした。
そこで、昭和32年(1957)から翌33年にかけて県内の市町村に樹木の提供をお願いしたところ、多くの団体や個人から樹木や苗木が寄せられ、平和大通りをはじめ、公園や道路に植えられました。
これが供木運動です。
平和大通りをはじめ、被爆後の広島が緑豊かな美しい街に生まれ変わることができたのは、平和を願う国内外からの支援と街の緑化に取組んできた人々の努力の結果であり、広島はこれらの記憶と多くの人々への感謝の気持ちを未来へと伝えていきます。
嵐の中の母子像
建立の目的 ■核兵器廃絶への限りない努力を呼びかける
形 状 ■右手に乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみ姿勢で生き抜こうとする母の姿を表す
建立年月日 ■昭和35年(1960年)8月5日
設 計 者 ■本郷 新
建 立 者 ■広島市地域女性団体連絡協議会 (旧)広島市婦人会連合会
祈りの泉
噴水池「祈りの泉」は、原爆の焦土のなかで水を求めながら亡くなられた犠牲者の慰霊と恒久平和への祈りをこめ、1964(昭和39)年11月、広島銀行が建設し、広島市に寄贈しました。
平和の像「若葉」
(湯川秀樹博士歌碑)
この像は、平和の像として広島県出身の彫刻家圓鍔(えんつば)勝三氏により製作されました。
台座には「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」と、ノーベル賞受賞者(1949)の湯川秀樹博士が詠まれた短歌が刻まれています。
(「まがつび」とは災害・凶事、それらを起こす神の意)
形状
ぐったりした教え子を抱え、自らも被爆した女性の教師が、悲嘆にくれた空を見上げている。(高さ2.4mのブロンズ像)
銘文
「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさいあたまの骨 あつまれり」(正田篠枝 しょうだしのえ)
1 国民学校改名と学童集団疎開及び建物疎開)
1938(昭和13)年国家総動員法により、学校も戦争体制になりました。1941年の国民学校令により呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。
戦争が激しくなると、都市部の初等科の3年生以上の児童は防空対策の一環として強制的に疎開させられました。
幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の犠牲になりました。(この頃の夏休みは、8月10日から20日まででした。)
2 犠牲となった国民学校教師・子どもの数
正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2000人と推定されています。
3 8月4日の慰霊祭
毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。
4 「太き骨は先生ならむ・・・」
この短歌は、1946年に被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「ざんげ」からとられたものです。原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。