ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
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湯川秀樹 他を動かす『手』

2012-02-01 14:35:17 | ひとの幸福
湯川秀樹の言葉、「造物主は他を動かす『手』を持たない。

造物主は自らの『こころ』に従って自ら変化してゆくもの。」


人間界で言うと、他を動かす『手』とはどういうことだろう。

「里山」のとこでさっき書いたけども、

自然は川に落ちて来た石に「どけ 邪魔だ」と言わない。

動かすことは出来ない。

川は自らの「こころ」に従って自ら変化してゆく。


ある人が他者に「どいてくれ 邪魔だ」と言って、

他者が動くということはある。

これは他者が動かされたということじゃない。

他者が自らの意志で変化した、ということ。


じゃ、他を動かす『手』とはどういうことだろか・・・

「どいてくれ 邪魔だ」と他に言って、

他に動く意志が生まれず、動かずにいた時に、

心が固くなって、なんとしてでもどかせようとする思い、

・・そんなのが 他を動かす『手』なのかと思う。



「思わず」②

2012-02-01 11:48:51 | 言葉
カッとして“思わず”ぶん殴った。

ということも世の中にはある。

思わず手が出た。思わず顔を隠した。思わずやっちゃった。

こういうのも“自然に”やっちゃった、ということだろ。


歩こうと思えば足は自然に前に出る。

自分の意志と脚の動きは調和してる といえる。

歩こうと思っても脳梗塞の後遺症でスムースに歩けないのは

自然という身体が自分の意志と調和できてない状態といえるかも。

健康なら、「次右足前に、次左足前に、手は足と交互に・・」なんて“思わず”歩ける。

歩こうと思えば、潜在意識の働きのお陰で、

“思わず”歩ける。


後遺症があれば、歩こうと思っても、“思わず”歩けない、という状態。

身体の不調によって、「歩くのはこういう動作をするものである」

・・という潜在意識にあるプログラムの指令が作動出来なくなっている状態、と言える。


脳梗塞の後遺症で後の生涯歩けなくなった人の「歩くにはこうしてあーして」

という潜在意識に在るプログラムは、

使われなくなってしまうのだろう。

歩かないという“不自然な自然”になってしまう。


例えば、カッとして“思わず”ぶん殴った、というのは・・

歩こうと思えば、思わず歩ける 

・・・これは意志と潜在意識が調和してると言えるけど、

殴ろうと思わなかったのに、思わず殴った

・・・これは意志と潜在意識が調和してない、と言えないかな。




「里山」・・・目に見えないもの 造物主は手を持たない

2012-02-01 10:59:57 | テレビを見て
NHK BSの朝ドラの後、「里山」というのをやってる。

時々見てるんだけど、

今朝のは鳥取県だったか、そこの81歳の男の人は里山の管理をしながら、

間伐して薪を作ったり、椎茸を栽培したり、

サンショウウオのいる川の川底の落ち葉を拾ったりしている・・・

というようなものだった。(そう見た)

自然と人為の調和だなぁと思った。

81歳のこの人が死んだら、今の時代、

もうそこでそういうことをする人はいなくなるのかなと思った。

この人もいなくなり、他にも誰もいなくなり、

自然と人為の調和も消え、

間伐もせず、川底の落ち葉を取ることもなくなり、

・・して、いつかその川がいろんな自然現象でせき止められてしまう場合もあるかもしれない。

すると、自然は又違う川を創るんだろう。

山から水が湧き出る限り、水は高い所から低い所に流れるだろうから。


湯川博士の「目に見えないもの」にあったこの文章。

「自然は自分自身の規則を持っている。

そしてそれから逸脱した振る舞いをする事は決してないのである。

造物主は他を動かす『手』を持たない。

造物主は自らの『心』に従って自ら変化してゆくのである」というもの。



その川に大きな石が転がってきて堰き止められても、

石に「邪魔だ、どけ」なんてしない。

自然は それならそれで、とまた別の川を創る。

人間の血管もひとつが詰まって止まってしまうと、

そのバイパスが出来たりするらしい。

手術で血管のバイパスを作ったりするのも、

そうなる自然の働きがあるからこそなんだろ。


それならそれで というのは自然そのものの姿なんだろうな。

そう“なってる”ものに一切の否定がないという。

あらゆる個性を尊重し、調和し、永久に発展していく、

・・という日本神道の云ってることだね~。