ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

認知 ②

2012-02-25 20:09:02 | ひとの幸福
ある現象が在った、ということ と、

それが在ったと認識していること、ということは別。

いわば、在った事実について、在ったという自覚の有無が、

認知症と認知症ではない人とを分けるのかと思う。


例えば、食事をしたのに、

食事したという事実が在ったという認識がないのが認知症状。


こういう目に見える現象の“事実”もあるけれど、

目に見えない現象である意識も、

(こういうことを思った)という“現象・事実”である。

それは自分にしかわからない。

なんせ意識は目に見えない現象だから。

そういう意味で、自分がこう思った、こう感じた、こう考えた、という事実が在っても、

それが在った、という認識が無いのは認知症状といえると思う。


その時その時、自分がどう感じ、どう思っているかに自覚もなく、

そのせいで、何かをする時に心底からの納得がないまま行動して、

そうしているという事実に、自覚が無い状態というのは

かなり認知症状が重いような感じがする。

・・見に覚えがあるのでわかる。

その時はそうしている自分に自覚がなかったから、

重症だという認識はなかった。


脳が萎縮して認知症状が現われるという。

義父の場合は転んだという物理的原因で脳の血管が破れ、

出血し続け、2ヶ月かかって大きな血腫になり、

それが脳を圧迫し、脳は萎縮したので認知症状が現われた。

何故脳が萎縮したのか原因はわかっている。

その原因を除去したら、脳は復元した。

物理的原因で萎縮した脳は物理的原因を取り去れば復元する。


さっき書いたような自分の意識に自覚が無いという状態は

その部分の脳を退化させる。そう確信する。

自覚するという働きを司る脳は使われなければ萎縮するんだろう。

使われないもの、動かないもの、は死ぬ。


心理的原因で脳が萎縮した場合は、

物理的原因と違って手術など出来ないのだろう。

現在、こんなに医学が進歩しても、脳が萎縮する原因はわかってないという。

身体ばかりに注目し、意識の方がおろそかになっているせいじゃないかと思う。

物質である脳にばかり注目し、

肝心要の意識に関心を寄せてない現状が、

認知症の原因すらわからないという状態を生んでいるのかと思う。


認知

2012-02-25 20:03:43 | ひとの幸福
年寄りは環境が変わると呆けるとか、ボケが進むとか聞いたことがある。

95歳の義父が一週間入院して、その間、

それらしき兆候かなと思ったことがあったんだけど、

昨日、退院していろいろ義父の話を聞いたら、

呆けている感じはしない。

論理的に破綻していない。辻褄があっている。

2ヶ月ほど前に転倒したのが原因のようで、脳に血の塊が出来て、

それを手術でとった。

脳が圧迫され、そのせいで少しマヒが出たり、

言葉が出なくなったり、記憶が混乱したりしたようだ。

術前にこういう手術をしてもらうんですよという説明をしたけれど、

その時は既にそれを理解できる意識レベルじゃなかったのだと思う。

術後もすぐには脳が元通りの大きさにはならないそうで、

術後に意識が戻った時は名前を言うことが出来なかった。


知的認識を司る脳が血の塊でその機能を果たせなくなったので、

手術したという事実が彼の認識に無い、ということになったみたいだ。

脳が手術によって改善して、意識が戻った時に、

彼にとって手術という記憶は無いし、

どこも痛くも痒くも無いのに、何で自分はこんな所にいるのだろう!!??

誰も見知った顔が無く、来た事も無い(新築したばかりの大病院)

浦島太郎のような気持ちだったかもしれない。

不安になるのも無理はないと思う。

記憶喪失と同じような体験だったのだと思う。


術前も今も、義父は私と同じように忘れっぽいけれど、

何かを(忘れた)という認識はある。

それは認知症状じゃない。

忘れたことをわかっている。

(忘れた=記憶に残っていない)という意識現象が自分に在ることがわかっている。

・・・続く。

受け入れる

2012-02-25 13:46:48 | ひとの幸福
ガンと宣告され、心は苦しむ。

なんで自分がこんな目に遭うのか。

まだあれもしたいこれもしたい。

まだ死にたくない。

やがて、そういう苦しみを越えて、ガンを受け入れられるようになる。

だいたい誰でもそういうステップを踏むというのを読んだことがある。

どんなことでも、受け入れると気持ちが楽になる。

これは誰でもそうなんだと思う。

嫌いだった人を受け入れられるようになると、

嫌いだから避けていた頃より、気が楽になる。

自分にとって不都合な事を受け入れられると気が楽になる。

ガンがよいものだから受け入れるわけじゃない。

受け入れる、そのことに善悪は関係ない。

在るからそれを受け入れるということだ。

受け入れるという心の状態は善悪を超えているということなんだろ。

在るものは在る、という事実にそった心境ともいえる。

無いものは無い、という事実にそった心境ともいえる。

無いものねだりをしてる時には気が楽じゃないしね。

気楽という心境=善悪を超えている=事実にそった心境=そのままでいいという心境

・・という方程式が成り立つような気がするなぁ。


「さようなら」②

2012-02-25 11:49:33 | 本を読んで
その本にこういう引用があった。

紹介したくて書くね。

アン・リンドバーグ(1906~2001)というアメリカの女性飛行機乗りで、

後に紀行作家になった人だそうなんだけど、

その人が日本に降り立った際に、「サヨナラ」という、

その人には意味のわからない別れ言葉をたくさん聞いて、

そのことについて、彼女はこう書いている。


「サヨナラ」を文字通りに訳すと、

「そうならなければならないなら」という意味だという。

これまでに耳にした別れの言葉のうちで、

このように美しい言葉をわたしは知らない。

ドイツ語、フランス語、英語の別れの言葉のように

別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを

「サヨナラ」はしない。

目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewell(うまくやっていって)のように、

別離の苦い味わいを避けてもいない。

Good-by(語源は God be with you(神があなたと共にいますように))のように、

言い過ぎてもいない。

日本語以外の別れの言葉は、励ましであり、戒めであり、

希望、また信頼の表現であるが、

しかし、それは「その瞬間自体のもつ意味を見落としている。

別れそのものについては何も語っていない。

「サヨナラ」は言い過ぎもしなければ、言い足りなくもない。

それは事実をあるがままに受け入れている。

人生の理解のすべてがその4音のうちにこもっている。

凡ての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、

それ自体は何も語らない。

言葉にしないGood-byであり、

心をこめて手を握る温かさなのだー「サヨナラ」は。

その瞬間の感情は隠され、ごくわずかのことしか表現されていない」


素敵でしょう?


「さようなら」

2012-02-25 10:18:57 | 本を読んで
「日本人はなぜ 『さようなら』と別れるのか」という本を読んだ。

とても面白かった。

いろんな切り口でそれを探っている本だった。

さようであるならば 致し方ない という含みがこの「さようなら」にはある。

そういうことになったのならそれは仕方の無いこと、ということと思う。

これを「諦め」というふうに観ることも出来るけど、

そういうことになった・・とは過去の事について云ってる。

起こったことは既に起こったことであり、

それは起こった事実。

そういう現象が在ったという事実を認めるということであって、

その過去の現象、それに賛成するということとは違う。

賛成だろうが反対だろうが在ったことは在った。

賛成だろうが反対だろうが起こったことは起こった。


日本語の表現で「済んだ事は水に流して」というのがある。

これも「さようならば・・・」と同じニュアンスと思う。

済んだ事・・過去に起きた事は水に流す・・

凄い表現だなと思う。

鴨長明じゃないけど、行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず・・

のようなもんで、

さようならばと、そこに執着しないのは

こういう理ゆえだと日本語は知っているみたい。

「それならそれで」も同じことかと思う。

執着しない、ということは関心を向けないということ。

関心をそこに向けるとそれが又現象化するという量子メカニズムを

日本語は知っているかのようだ。

済んだ事は水に流して というその済んだ事は善き事じゃないみたい。

いろいろあるけれど、今はさようであるならば、

済んだその事は受け入れるっきゃない・・・

無念だけどそれが事実なんだと・・・

けど、その無念さを引きずることが無い感じ・・を受ける。

それでも又前を向いて進むというようなニュアンスを感じる私だ。

ど明るさじゃなくて、静かな穏やかな明るさ・・みたいな。