ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

家庭の幸福

2012-02-03 19:45:12 | ひとの幸福
とても仲の良い家族があって、父と母は立派な人格者で、

カッとして怒ることもなく、

家族全部が愛に溢れていて、お金にも不自由せず、

美味しいものを毎日食べて、温かな美しい衣類を身にまとって、

毎日楽しいことばかり・・・

そんな家に育った子供は幸せだろう。

釈迦はそんな家に育ったという。


けど、そこから一歩外に出た時に、生・老・病・死という苦しみを見たという。

もし、その家から出た外も全部がその家と同じような幸福な状態であったら、

釈迦はなんの憂いも感じなかっただろうと思う。

家も出なかったかもしれない。

そういうのは内も外も既に世界中の人が仏陀状態といえるんだろうか?

世界中がそうなったら個人の幸福は完全な幸福になるんだろう。

誰もなんの苦しみもなく。


例えば、私みたいな綺麗じゃないブスが、

その家庭では誰からも馬鹿にもされずに、

美人と分け隔てなく受け入れてもらえて、

そういう仲良い幸福な家庭にいたら心が快適で幸福でも、

そこを出て、誰かにブスだと馬鹿にされ、

心が痛んで苦しみを味わうとすると、

その人がその家庭で感じていた幸福はその場限定のものになる。


いつでもどこでも何があってもなくても幸福な人になることが、

世界中が幸福になる基になる。


仏陀になった瞬間なのか、釈迦が世界のそのままを丸ごと受け入れ、

何を見ても美しいと感じる、歓喜に溢れた心になった描写が

ヘッセの「シッダールタ」にある。


幸福な家庭にずっといた釈迦だったら、

この歓喜を味わう機会がなかったと思う。

幸福な場が幸福なのは当たり前なんだけど、

そこに留まっていたら、そこから出られなくなる。

出たら湯冷めしてしまうから。


宮沢賢治が言ってた世界中が幸福にならなければ個人の完全幸福は無い、

ということもこういうことなのかなと思うんだ。

寅さん

2012-02-03 15:45:19 | ひとの幸福
「男はつらいよ」の映画で、

若尾文子と宮本信子、森繁久弥がゲストの奴。

寅さんのせりふでこんなのがあった。

「俺はここ(柴又)に帰って来ないぞと思うんだけど、

ここに帰って来たい気持ちになっちゃうんだよ、

だから帰って来てしまうのは俺のせいじゃないんだよ」

とかなんとか、言ってた。

妹のさくらが「そうね、困った気持ちね」と泣き笑っていた。

さすが山田洋次、凄いと思った。

「帰って来てしまうのは俺のせいじゃない」

「帰って来たくなる、そういう気持ちに」(なる)のは、

まさしく寅さん一人で(なる)わけじゃない。

周りの温かな心もそれに加担している。

読書感想文

2012-02-03 10:46:40 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞に読書感想文コンクールに入賞した文章が載ってた。

とても興味深く読んだ。

どれを読んでも、言葉を読むという行為は

自分の心を読んでいるのだなぁと思ってしまう。

読むことで引き出される自分の心がある。

こうしてブログに向かって湧くままに言葉を綴っていると、

それを綴っている自分と、

それを読む自分とが、分かれてるという感じになる。

そして又湧いて来る言葉がある。

読む 書く というのが呼吸みたいな感じ。

入れる 出す という循環みたい。

「木語」③

2012-02-03 09:46:00 | 新聞を読んで
昨日の新聞に先週の「木語」の続きが載ってた。

孔子の子孫である教授の話。香港人は犬だ と言ったというのを、

香港人の一部は犬だ と言い直したそう。

「香港文化の法治主義はイヌのシツケと同じで、

徳治主義の中国文化より劣る」と断じたけど、

香港世論が憤激すると修正したということ。

ネットで誰かが「香港の電車で食べ物を食べよう」と声かけたら、

6万人がよし、やろうって言ったみたいだけど、

それは実現しなかったらしいけど、その発想は面白い。

このことで、香港では「中国の観光客に寛大になろう」

という論調が増えたそう。それも面白い。

孔子の子孫先生の言うことに幾らか納得して、

そういう展開になったのか、

お客様の中国人の機嫌を損ねたら、香港の経済的損失になるからと、

そういう展開になったのか、

わからないけど・・両方かもしれない。


徳治主義の中国文化・・なのか・・ふーん、そうかもしれない。

中国人の発想には面白いものが多い気がする。

中国のひとの行ないは全くなってない、とか

平気でごまかすし、それを屁とも思ってない・・とかの言葉を

見かけたことはある。

そういう現象を法で治めようという発想が無い・・・

・・のかもしれない。

人間の外側にある「法律」で秩序を保とうという気が無い・・

とも言えるかもしれない。

中国人の多く?がそういう行為をするという現象が云ってるのは、

人間の内側にある「徳」で秩序が自然に保たれる、までに

中国人は成長してないということか。

「法治」という蓋をしてないので、内に在るものがすぐに見える、

とも言えるかもしれない。


中国が法で治めようとしない、ということを本当にしてるのか、

それは疑問だけど、

小さな出来事ごとにはそういう対応なんだろう。

なんせたくさんの人が居る国で、

そんなこといちいちやってられないのかもしれないし・・・

でも日本人よりわかりやすいと言えば言えそうな気もする。