とても仲の良い家族があって、父と母は立派な人格者で、
カッとして怒ることもなく、
家族全部が愛に溢れていて、お金にも不自由せず、
美味しいものを毎日食べて、温かな美しい衣類を身にまとって、
毎日楽しいことばかり・・・
そんな家に育った子供は幸せだろう。
釈迦はそんな家に育ったという。
けど、そこから一歩外に出た時に、生・老・病・死という苦しみを見たという。
もし、その家から出た外も全部がその家と同じような幸福な状態であったら、
釈迦はなんの憂いも感じなかっただろうと思う。
家も出なかったかもしれない。
そういうのは内も外も既に世界中の人が仏陀状態といえるんだろうか?
世界中がそうなったら個人の幸福は完全な幸福になるんだろう。
誰もなんの苦しみもなく。
例えば、私みたいな綺麗じゃないブスが、
その家庭では誰からも馬鹿にもされずに、
美人と分け隔てなく受け入れてもらえて、
そういう仲良い幸福な家庭にいたら心が快適で幸福でも、
そこを出て、誰かにブスだと馬鹿にされ、
心が痛んで苦しみを味わうとすると、
その人がその家庭で感じていた幸福はその場限定のものになる。
いつでもどこでも何があってもなくても幸福な人になることが、
世界中が幸福になる基になる。
仏陀になった瞬間なのか、釈迦が世界のそのままを丸ごと受け入れ、
何を見ても美しいと感じる、歓喜に溢れた心になった描写が
ヘッセの「シッダールタ」にある。
幸福な家庭にずっといた釈迦だったら、
この歓喜を味わう機会がなかったと思う。
幸福な場が幸福なのは当たり前なんだけど、
そこに留まっていたら、そこから出られなくなる。
出たら湯冷めしてしまうから。
宮沢賢治が言ってた世界中が幸福にならなければ個人の完全幸福は無い、
ということもこういうことなのかなと思うんだ。
カッとして怒ることもなく、
家族全部が愛に溢れていて、お金にも不自由せず、
美味しいものを毎日食べて、温かな美しい衣類を身にまとって、
毎日楽しいことばかり・・・
そんな家に育った子供は幸せだろう。
釈迦はそんな家に育ったという。
けど、そこから一歩外に出た時に、生・老・病・死という苦しみを見たという。
もし、その家から出た外も全部がその家と同じような幸福な状態であったら、
釈迦はなんの憂いも感じなかっただろうと思う。
家も出なかったかもしれない。
そういうのは内も外も既に世界中の人が仏陀状態といえるんだろうか?
世界中がそうなったら個人の幸福は完全な幸福になるんだろう。
誰もなんの苦しみもなく。
例えば、私みたいな綺麗じゃないブスが、
その家庭では誰からも馬鹿にもされずに、
美人と分け隔てなく受け入れてもらえて、
そういう仲良い幸福な家庭にいたら心が快適で幸福でも、
そこを出て、誰かにブスだと馬鹿にされ、
心が痛んで苦しみを味わうとすると、
その人がその家庭で感じていた幸福はその場限定のものになる。
いつでもどこでも何があってもなくても幸福な人になることが、
世界中が幸福になる基になる。
仏陀になった瞬間なのか、釈迦が世界のそのままを丸ごと受け入れ、
何を見ても美しいと感じる、歓喜に溢れた心になった描写が
ヘッセの「シッダールタ」にある。
幸福な家庭にずっといた釈迦だったら、
この歓喜を味わう機会がなかったと思う。
幸福な場が幸福なのは当たり前なんだけど、
そこに留まっていたら、そこから出られなくなる。
出たら湯冷めしてしまうから。
宮沢賢治が言ってた世界中が幸福にならなければ個人の完全幸福は無い、
ということもこういうことなのかなと思うんだ。