ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

新沼謙治さん 氷川きよしさん(勝手な想像だけど)

2013-09-10 15:25:51 | ひとの幸福
「傲慢」の反対語が「謙虚」なんだろうか・・・

お金とか知識とか知恵とか名誉とか地位とかいうものを

持っているということで、それをひけらかしたりすることを、

傲慢な態度とか言うのだろう。

謙虚な態度というのはそういうものを持っていても、

ひかえめで素直(広辞苑より)で、偉ぶらない様子なんだろう。

じゃあ、そういうものを持っていなければ、

謙虚で居られるかというとそうでもないと思う。

そういうものを実際持っていなくても、

そのことで卑屈という傲慢になることも人間にはあるような気がする。

持っていても、持って居なくても、謙虚で居たいものだと思う。

単に伝えるじゃなく、教えてやるという感じになってしまうのも、

謙虚さからは遠いのかもしれない。

どんなこともあって当たり前、という境地に居たら、

なかなか謙虚になれない。

そうだよね~、いろんなものを持っていても、

そうなったのもその人一人力なんてホンのホンの少し・・・

というのは事実なんだから。

「おかげさまで」という心は謙虚さから来る。


新沼謙治や氷川きよしが好きなのも、

謙虚さに憧れる私だからなのかなぁ。

会ったこと無いけどそんなふうに感じてしまう私であった。
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福島智さん という人

2013-09-10 14:49:21 | 本を読んで
福島智さんという人と黒柳徹子さんの対談を読んだ。

福島智さんという人は東京大学先端科学技術研究センター教授で、

全盲、聴力無しの人。

3才で右目を、9才で左目の視力を失い、

14才で右耳を、18才で左耳の聴力を失ったという。

18才のその時の気持ちをこう言っている。


「心の中が何も映らない、音のない箱になってしまった。

暗黒の真空状態に放り出されたような感じ。」

「光と音を失ったとき、突然地球上から引き剥がされ、

この空間に投げこまれたように感じた。

自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、

狭くて暗く、静かな世界で呻吟していた。」


そういう失意のときに友人が福島さんの手のひらに指先で

「し さ く は き み の た め に あ る」

と書いてくれたという。


「このコトバは生きる意味を見失いかけていた私の暗やみを照らし、

後に私に生きる力を与えてくれました。

私の命は、そうしたいくつものことばによって裏打ちされている。

私にとって言葉は命であり、命は言葉そのものです。」と。


今は「指点字」通訳という方法でコミュニケーションしているそう。

(指点字とは左右3本ずつの指を点字タイプライターに見立てて

点字を打つコミュニケーション手段。

指点字通訳者の指を通して、対話者の質問や相槌などが福島さんの指に伝えられる)


その指点字で再び言葉・世界を再発見できた・・・・

で、「指先の宇宙」という詩がこの人にある。

「ぼくが光と音を失ったとき

そこにはことばがなかった

そして世界がなかった

ぼくは闇と静寂の中でただ一人

ことばをなくして座っていた

ぼくの指にきみの指が触れたとき

そこにことばが生まれた

ことばは光を放ちメロディを呼び戻した

ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき

そこに新たな宇宙が生まれ

ぼくは再び世界を発見した

コミュニケーションはぼくの命

ぼくの命はいつもことばとともにある

指先の宇宙で紡ぎ出された

ことばとともに」


これを読んでとても感動した。

前にヘレン・ケラーの「奇跡の人」という映画について

ここに書いたことがあったけど、

少女だったヘレン・ケラーが井戸の水を身体で感じた時に、

サリバン先生の手のひらに

「WATER」と手文字で表現した、あのときの感動を思い出した。

ヘレン・ケラーは先天的か、生まれてすぐか、知らないけれど、

ものごころ付いたときから全盲全聴力無しの世界に生きていた。

こうしたいあーしたい、という自分だけの真っ暗な世界に生きていた。


あの井戸のシーンは言葉を得て、

世界が在るということに気付き、

自分が言葉によって、世界とつながれるという歓喜を描いたものだと思う。

宇宙や世界が存在していることを、

言葉が在ることを、

私たち健常者は特別な努力も無しに容易に知ることが出来るから、

存在と認識というからくりに気が付きにくいのかと思う。

全盲全聴力無しの状態で居る人は、

在るものを在ると認識できない。

だって、それをわかるすべがないのだから。

山奥の金塊の話をすぐに持ち出すけど、

山奥に金塊が在っても、それを在ると認識できなかったら、

その人にとって無いのと一緒で、

ヘレン・ケラーは自分以外誰もいない世界に住んでいた。

いや、自分の存在さえ認識できなかっただろう。

認識を表わす言葉が無い世界にいたのだから。

そして、他が無いということは自も無いということだから。


ヘレン・ケラーは中途失明や中途聴力無しじゃないから、

それがある意味当たり前だったのだろうと思うけれど、

自分の欲望以外なんにもなかった世界に、

他が在る、世界が在る、という発見は

歓喜以外なかったのだろうと思う。

その発見以前はヘレン・ケラーは人間ではなかったのかもしれない。

人は人の中で人になるのだから。


福島さんは18才以前には世界を認識できたので、

光と音を失った絶望は大きなものだったろうと思う。

中途で光と音を失った人の失望はどんなものだろうと思う。


指点字という方法を考え付いた人やそれをやってくれる人が居るから、

コミュニケーション出来る。その人たちの凄さを思う。

健常者は自分で見ることが出来、自分で聴くことが出来る。

どうしてもそれが当たり前になってしまう。

そして、自分の観たこと、聞いたことを、

事実かのように意識作用してしまう。

ヘレン・ケラーや福島さんのような人は、

目や耳からの多くの情報にさらされることがないから、

それらに翻弄されないということもあるかもしれない。

目が不自由だと耳の能力がそれをカバーするように高まるものだ

ということを聞いたことがあるし、

そういうことで、自分の意識にとても自覚的になる

ということもあるんじゃないかと思った。

それにしても、こうして目や耳が当たり前に動いていてくれることも、

当たり前だけれど、当たり前じゃないんだと思った。











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