この本はまだ読んでいない。
(いや、これは間違いでした。渡辺和子さんという人のだそうです。)
この本の名を新聞紙上で見たときに、的確な名だと勝手に思った。
だから、私が思っていることとその本の内容は全く違うものかもしれない。
私は現在夫と夫の父親との3人で過疎の村に暮らしている。
そこがいわば、今の私の置かれた場所なんだと思う。
「置かれた」という表現だけ聞くと、
花瓶が誰かの手によってそのテーブルに置かれた・・みたいに、
全くの受身でしかないように思われるけれども、
ここでいっている「置かれた場所」はそういうことじゃないのかと思ってる。
ここで暮らすことは自分の意志で決めた、というのはあるけれど、
そういう“自分の意志”という成り立ちを観ると、
それまでの人生で巡り会ったすべてと、
その時そのときの私の意志との相互作用で共に創ったもの。
なるべくしてそうなった、こういう言葉が一番ぴったり来ると思う。
そういう場所に私は居る。
これから先のことはわからない。違うところかもしれない。
でもそれはその時の私が置かれた場所になるのだろうと思う。
そういう置かれた場所で“咲きなさい”とはどういうことか・・・
私は本の名を見て、どうして的確だと思ったのか・・
こんなところに居るはずじゃなかったとか、
ここよりあそこに居る方がベターなんじゃないかとか、
ここよりもっと活躍できる場所があるんじゃないかとか、
今ここに居ることを否定した上でのそういう思いを持ちながら、
その場所に居ることはそこで咲くことにならない、
ということをいっているのか・・と思ったのだった。
(今ここ)に生きてない、思いを引きずったまま生きているのは、
置かれた場所で咲いてない、ということになるのかと思った。
でも、置かれた場所を、こんなところに置かれたくなかった・・
という思いになることだって、ひとはある。
そういう時は萎んでいればいい。好きなだけ萎んでいればいいと思う。
でも、ひとは萎んだままでは居られない。
自分も周りもそれを何とかしようとせずに、待っていればいい。
そういうことの上で、
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるのかと思う。
(いや、これは間違いでした。渡辺和子さんという人のだそうです。)
この本の名を新聞紙上で見たときに、的確な名だと勝手に思った。
だから、私が思っていることとその本の内容は全く違うものかもしれない。
私は現在夫と夫の父親との3人で過疎の村に暮らしている。
そこがいわば、今の私の置かれた場所なんだと思う。
「置かれた」という表現だけ聞くと、
花瓶が誰かの手によってそのテーブルに置かれた・・みたいに、
全くの受身でしかないように思われるけれども、
ここでいっている「置かれた場所」はそういうことじゃないのかと思ってる。
ここで暮らすことは自分の意志で決めた、というのはあるけれど、
そういう“自分の意志”という成り立ちを観ると、
それまでの人生で巡り会ったすべてと、
その時そのときの私の意志との相互作用で共に創ったもの。
なるべくしてそうなった、こういう言葉が一番ぴったり来ると思う。
そういう場所に私は居る。
これから先のことはわからない。違うところかもしれない。
でもそれはその時の私が置かれた場所になるのだろうと思う。
そういう置かれた場所で“咲きなさい”とはどういうことか・・・
私は本の名を見て、どうして的確だと思ったのか・・
こんなところに居るはずじゃなかったとか、
ここよりあそこに居る方がベターなんじゃないかとか、
ここよりもっと活躍できる場所があるんじゃないかとか、
今ここに居ることを否定した上でのそういう思いを持ちながら、
その場所に居ることはそこで咲くことにならない、
ということをいっているのか・・と思ったのだった。
(今ここ)に生きてない、思いを引きずったまま生きているのは、
置かれた場所で咲いてない、ということになるのかと思った。
でも、置かれた場所を、こんなところに置かれたくなかった・・
という思いになることだって、ひとはある。
そういう時は萎んでいればいい。好きなだけ萎んでいればいいと思う。
でも、ひとは萎んだままでは居られない。
自分も周りもそれを何とかしようとせずに、待っていればいい。
そういうことの上で、
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるのかと思う。