「意志的な意志をあなたがもっていることが
あなたの邪魔をするのです・・・・
まとに当てるために矢の放れを習復しようと
努力すればするほどますます放れは成功せず、中り(あたり)も遠のく・・・・
快と不快との間を右往左往することから(悪い射に腹を立てたり、
善い射に喜んだりすることから)
あなたは離脱しなければなりません。
すなわちあなたではなくてまるで別の人が善い射を出したかのように
喜ぶことを心がけるのです・・・
今やあなたは“それ”が射る、
“それ”があてる、ということが何を意味するかおわかりでしょうか・・・」
・・・これは「ハイライトで読む 美しい日本人」の中の、
オイゲン・ヘルゲルという人が書いた、彼の弓の師範の言葉です。
「弓と禅」という本の一部を引用したもののその又引用です。
この著者はドイツの新カント派の哲学者で、
1924年から29年まで日本に暮らし、東北帝大の講師を勤めるかたわら
弓道の修行に励んだという。
弓道とか剣道柔道という、今ではスポーツとして知られているものが、
日本のものは何故「道」が付くのか、
この年になっても知らなかった無知な私で、
なんでだろ?だけはあったけど、知ろうともしなかった。
それがこれを読んで、そうなのかぁ、と思った。
以下は斉藤孝さんの文章です。
・・・弓道を含め、日本の武芸の究極の状態は、
自意識を解放しきった覚醒にあること。
そしてそこへ至る道は呼吸法によって達成されることを、
達人たちは理解していた。
呼吸法こそが自意識をコントロールする強力な道筋だからだ。
呼吸は自分の内と外をつなぐ道であり、自己と世界は分離したものではなく、
呼吸を通じて一つに混じり合っている。
仏教というとその宗教的考え方ばかりに注目するが、
仏教の悟りという究極には呼吸法があり、「釈尊の呼吸法」には、釈尊が
緩く長く吐く呼吸法で悟りを得たことが詳しく記されている。
だから、弓道の目指したものは、的を当てることではなく、
そんな世界と一体化したような感覚の会得にあった。
それがテキストに出て来る、「放れ」という考え方だ。
東洋の呼吸法が目指したのは、宇宙との一体化であり、
自意識を解き放ち、もはや自分が呼吸しているのではない、
周囲によって「呼吸させられている」と感じるほどに、
世界と溶け合った状態ーーーーそんな、
積極的な受動性の感覚が、禅の精神性であり、
日本人の宗教性の根底にあった。
・・・ここらへんでやめるけど、全部を引用したいくらい。
日本の武芸というものは勝ったり、的に当たったりは結果であって、
そういうことが目的ではなかったのだとわかった。
だから道が付くのか・・・
この師範の言葉でこういうのもある・・・
あの的の中り(あたり)は、頂点に達したあなたの無心、無我。沈潜状態ーーー
その他なんとこの状態を名づけようとーーーー
の外面的な証拠、確認に過ぎないのです。・・・最後の段階に達した人であって
初めて、外面的な目標をも、もはや射損じることがあり得ないのです・・・・
一番最初に引用した文章のコレ・・・
「意志的な意志をあなたがもっていることが
あなたの邪魔をするのです」
コレなんて全く量子力学じゃないかと思ったよ。
量子ゼノン効果の、(眠ろうとすると眠れない)
(忘れようとすると忘れられない)のと同じで、
当てようとするとあたらない。ということだ。
幸福になるには思い(自我意識)を放すことが有用。
「思い(自我意識)を放す」という心での作用が達成されるのに、
呼吸という身体を使って、弓を引く。
心身一元論・・ともいえる。
こんなん書いてるのは全く身体じゃなくて頭だけのことなんだけど、
思いを放す、にはいろんな方法があるのだとも思う。
あなたの邪魔をするのです・・・・
まとに当てるために矢の放れを習復しようと
努力すればするほどますます放れは成功せず、中り(あたり)も遠のく・・・・
快と不快との間を右往左往することから(悪い射に腹を立てたり、
善い射に喜んだりすることから)
あなたは離脱しなければなりません。
すなわちあなたではなくてまるで別の人が善い射を出したかのように
喜ぶことを心がけるのです・・・
今やあなたは“それ”が射る、
“それ”があてる、ということが何を意味するかおわかりでしょうか・・・」
・・・これは「ハイライトで読む 美しい日本人」の中の、
オイゲン・ヘルゲルという人が書いた、彼の弓の師範の言葉です。
「弓と禅」という本の一部を引用したもののその又引用です。
この著者はドイツの新カント派の哲学者で、
1924年から29年まで日本に暮らし、東北帝大の講師を勤めるかたわら
弓道の修行に励んだという。
弓道とか剣道柔道という、今ではスポーツとして知られているものが、
日本のものは何故「道」が付くのか、
この年になっても知らなかった無知な私で、
なんでだろ?だけはあったけど、知ろうともしなかった。
それがこれを読んで、そうなのかぁ、と思った。
以下は斉藤孝さんの文章です。
・・・弓道を含め、日本の武芸の究極の状態は、
自意識を解放しきった覚醒にあること。
そしてそこへ至る道は呼吸法によって達成されることを、
達人たちは理解していた。
呼吸法こそが自意識をコントロールする強力な道筋だからだ。
呼吸は自分の内と外をつなぐ道であり、自己と世界は分離したものではなく、
呼吸を通じて一つに混じり合っている。
仏教というとその宗教的考え方ばかりに注目するが、
仏教の悟りという究極には呼吸法があり、「釈尊の呼吸法」には、釈尊が
緩く長く吐く呼吸法で悟りを得たことが詳しく記されている。
だから、弓道の目指したものは、的を当てることではなく、
そんな世界と一体化したような感覚の会得にあった。
それがテキストに出て来る、「放れ」という考え方だ。
東洋の呼吸法が目指したのは、宇宙との一体化であり、
自意識を解き放ち、もはや自分が呼吸しているのではない、
周囲によって「呼吸させられている」と感じるほどに、
世界と溶け合った状態ーーーーそんな、
積極的な受動性の感覚が、禅の精神性であり、
日本人の宗教性の根底にあった。
・・・ここらへんでやめるけど、全部を引用したいくらい。
日本の武芸というものは勝ったり、的に当たったりは結果であって、
そういうことが目的ではなかったのだとわかった。
だから道が付くのか・・・
この師範の言葉でこういうのもある・・・
あの的の中り(あたり)は、頂点に達したあなたの無心、無我。沈潜状態ーーー
その他なんとこの状態を名づけようとーーーー
の外面的な証拠、確認に過ぎないのです。・・・最後の段階に達した人であって
初めて、外面的な目標をも、もはや射損じることがあり得ないのです・・・・
一番最初に引用した文章のコレ・・・
「意志的な意志をあなたがもっていることが
あなたの邪魔をするのです」
コレなんて全く量子力学じゃないかと思ったよ。
量子ゼノン効果の、(眠ろうとすると眠れない)
(忘れようとすると忘れられない)のと同じで、
当てようとするとあたらない。ということだ。
幸福になるには思い(自我意識)を放すことが有用。
「思い(自我意識)を放す」という心での作用が達成されるのに、
呼吸という身体を使って、弓を引く。
心身一元論・・ともいえる。
こんなん書いてるのは全く身体じゃなくて頭だけのことなんだけど、
思いを放す、にはいろんな方法があるのだとも思う。