日本語が日本人をつくった、と思っていたけど、
そういうことは金田一春彦とかの学者がとうの昔に言ってたんだなぁと
この本を読んでわかった。
「お茶が入りました」「ご飯が出来ました」・・・
というような言葉遣いについての記述が面白かった。
お茶やご飯という物は自分で入ったり出来たりするもんじゃないけど、
日本語はこういう表現をする。
当たり前に使っているけど、この表現には、
私が入れたよ、とか私がつくった、とかのニュアンスがない。
私が私が・・という自我意識が皆無だ。
こういう言葉遣いを自然に聴いて育つということは、
人間形成上大きな意味を持つのだろうなぁと思った。
実際、お茶を入れようと思ったのは自分という一人の人間の意志だけれども、
お茶が入った、という現象が成り立ったのは、
自分の意志だけではない、ということを
日本語は知っている、という感じがする。
そういうことは金田一春彦とかの学者がとうの昔に言ってたんだなぁと
この本を読んでわかった。
「お茶が入りました」「ご飯が出来ました」・・・
というような言葉遣いについての記述が面白かった。
お茶やご飯という物は自分で入ったり出来たりするもんじゃないけど、
日本語はこういう表現をする。
当たり前に使っているけど、この表現には、
私が入れたよ、とか私がつくった、とかのニュアンスがない。
私が私が・・という自我意識が皆無だ。
こういう言葉遣いを自然に聴いて育つということは、
人間形成上大きな意味を持つのだろうなぁと思った。
実際、お茶を入れようと思ったのは自分という一人の人間の意志だけれども、
お茶が入った、という現象が成り立ったのは、
自分の意志だけではない、ということを
日本語は知っている、という感じがする。