ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

傲慢さ

2013-09-16 11:51:06 | ひとの幸福
自分の傲慢さに気付くと謙虚になれる。

傲慢で在っても、それに気付かないと傲慢のままで居ることになる。

不思議なことに気付くだけで瞬時に変わる。

傲慢さと謙虚さはコインの裏表なんだろうか・・・

だから気付くという心理作用でころっと転換する。

傲慢で居るとだいたい多少なりとも愉快な気分では居られない。

そういうときは、ひとを裁いたり、検査したりしている。

そういう経験が豊富だからよくわかる。

そういう自分にしょっちゅう気付く、ということは

傲慢で在るということがよくある、ということでもある。

常に謙虚で在り続けている人は、

どういうふうな仕掛け・境地でそうなっているんだろう。

無いで当たり前ということがとことんその人に入っている、

ということだろうか???

う~ん・・・執着を(持ってない)ってことじゃないか・・・

このことはこういうもの観、こう在るべき観、

当たり前観、こうするべき観、・・・

そいうのを固く持っていると、どうしても偉そうになる。

常にそういう執着から解き放たれている・・そういう人が

謙虚で在り続けられているんだろうか・・・。

本当にそうなりたいよ。

それは凄く楽で美しい世界だ。

来訪

2013-09-16 11:00:40 | 日々の暮らし・思い出
私たち夫婦にとっての長女が親しい友人と共にこの休日に我が家に来てくれた。

1泊だけだったけど、とても楽しく過ごした。

彼女からのリクエストのアサヒスーパードライと、

この地の魚の刺身やうちの畑の野菜の料理を用意して、

5人での楽しい宴。

その友人とは初めて会ったのだけど、初めてのような気がせず、

ちょっと岩手訛りの言葉がとても心地よかった。

なんとも言えないいい感じ。

なんだか最初からその人とも打ち解けてお喋り。

こういう集いは本当にいいなぁと思う。

また是非来て欲しいと思った。

この言葉がたくさん聞こえる岩手にも行きたいと思った。


80才の頃の義父

2013-09-14 09:10:05 | 日々の暮らし・思い出
昨夜、夕食の後、なんとなく3人がテーブルから離れないで居た。

義父が「ナンタラのきよちゃんはあんた知らんか~?」と

話しかけて来て、聞くとずっと義父より年上の人。

義父が子供の頃、きよちゃんの連れ合いが

何かの作業を手伝ってくれと義父に言って、一緒にそれをしたんだ、と、

実に楽しそうに話した。

急にその話をしたように私は感じたけれど、

義父の中では何かからつながってその時話したくなったのかと思った。

「今までの人生で、もし戻れるなら何才位のときに戻りたいですか?」

と聴きたくなって聴いてみた。

そうしたら、「80才頃かな~」と。

もっと若い頃を言うのかなと予想していた私はちょっとびっくりした。

義父にとって80才代というのは・・・

責任ある仕事から離れて、陸上で(それまでずっと遠洋漁業の仕事に従事してたから)

いかつい(ここらでは元気なことをそう言う)身体だったから、

なんでもやれることはやっていた、その頃がよかったなぁ・・・と。


97才でも平均よりずっと元気な義父だと思うけれど、

この義父が80才の頃なんて、びくりするほど元気だったのだろうと思う。

身体は元気で思うとおりに動くし、

やらなくちゃいけない、という仕事での義務感から解放され、

家のことは全部妻がやってくれるし、

いろんな頼まれる雑仕事や、地区の役員やら、

地域の行事参加やら、それまで出来なかったことを十分した、

というようなことを聴いた。

そして、そういうことを言った後、

「今が一番ええ」と一言。




置かれた場所で咲きなさい ②

2013-09-13 13:31:51 | ひとの幸福
この本はまだ読んでいない。

(いや、これは間違いでした。渡辺和子さんという人のだそうです。)

この本の名を新聞紙上で見たときに、的確な名だと勝手に思った。

だから、私が思っていることとその本の内容は全く違うものかもしれない。

私は現在夫と夫の父親との3人で過疎の村に暮らしている。

そこがいわば、今の私の置かれた場所なんだと思う。

「置かれた」という表現だけ聞くと、

花瓶が誰かの手によってそのテーブルに置かれた・・みたいに、

全くの受身でしかないように思われるけれども、

ここでいっている「置かれた場所」はそういうことじゃないのかと思ってる。

ここで暮らすことは自分の意志で決めた、というのはあるけれど、

そういう“自分の意志”という成り立ちを観ると、

それまでの人生で巡り会ったすべてと、

その時そのときの私の意志との相互作用で共に創ったもの。

なるべくしてそうなった、こういう言葉が一番ぴったり来ると思う。

そういう場所に私は居る。

これから先のことはわからない。違うところかもしれない。

でもそれはその時の私が置かれた場所になるのだろうと思う。

そういう置かれた場所で“咲きなさい”とはどういうことか・・・

私は本の名を見て、どうして的確だと思ったのか・・

こんなところに居るはずじゃなかったとか、

ここよりあそこに居る方がベターなんじゃないかとか、

ここよりもっと活躍できる場所があるんじゃないかとか、

今ここに居ることを否定した上でのそういう思いを持ちながら、

その場所に居ることはそこで咲くことにならない、

ということをいっているのか・・と思ったのだった。

(今ここ)に生きてない、思いを引きずったまま生きているのは、

置かれた場所で咲いてない、ということになるのかと思った。


でも、置かれた場所を、こんなところに置かれたくなかった・・

という思いになることだって、ひとはある。

そういう時は萎んでいればいい。好きなだけ萎んでいればいいと思う。

でも、ひとは萎んだままでは居られない。

自分も周りもそれを何とかしようとせずに、待っていればいい。

そういうことの上で、

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるのかと思う。

さかさま人間学

2013-09-12 16:43:35 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞、こうして時々養老先生の文章が載る。

「今日の見出しは「痛み」「身体を守る大切な信号」

痛みを感じるのは大切なこと。

痛みは痛む場所で何か具合のわるいことが起きていることを

知らせてくれる信号である」と。

身体と心は同じものなんだなぁと思う。

こころ的痛みは肉体的痛みと同じで、

意識の何処で何か具合のわるいことが起きていることを

知らせてくれる信号。

怒り、貪り、蔑み、小さな心の波立ちまで・・

快適に感じない気持ちはみんなこころ的痛み。

こころと身体を守る大事な信号。








認識。 実践。

2013-09-12 10:38:52 | ひとの幸福
(自他が在りのままで居ること)を受け入れられる自分になる。

それが目標だけれど、

自他の在りのままを否定してしまっている自分が現れることがある。

それを否定しちゃいけない。

そういう、否定してしまう自分も在りのままでいい。

そうは言っても、否定してしまう自分を否定してしまう自分が在る。

でもここで、そういう自分が在ると言語化出来ているということは、

そういう自分に気付いている、ということだ。

どんなことも「在る物・在ること」を在ると認識することから始まる。

書いてて又こんなこと書いてると思ったけど、

頭がいま、そうなってるんだからしょうがない。

でも書いてるばかりじゃだめだ。

そう実践できるようになるには実践という経験が要る。



「目覚めよ」という言葉

2013-09-12 09:58:29 | ひとの幸福
この前、聖書の「目覚めよ」という言葉を、

自覚せよ、ということだ、と書いた。前も書いたかもしれない。

書いてよかった、出してよかった。

違うんじゃないかというのが出てきたからだ。

いや、それとつながることだけど、

愛が在ることに気付けということ・・・なんじゃないか・・・?????


表現すること

2013-09-12 09:45:03 | ひとの幸福
人はみな愛が在る。愛される、愛する存在だ。

事実として愛されていても、

それを受ける側が「愛されている」と感じなければ、

(愛されている)にならない。

届けたい贈り物が相手にちゃんと届いたか確認しないといけない。

届いてなかったら、届くようにしなければならない。

そのために表現がある。

「死にゆく者からの言葉」

2013-09-12 09:26:13 | 本を読んで
いつも布団に入ると本を読んで、眠気が襲ってきたら、

灯りを消して寝ることにしている。

昨夜、この本を読んでいたら、眠気が来なかったので、

最後のページまで読んだ。途中で何度も泣けた。

この著者はクリスチャンなんだろうけど、

そういうことを全然特別なこととしてなくて、

自然な感じだった。

曽野綾子さんの文章を読んでいる時に感じるキツさのようなもの、

は、全然感じなかった。

愛が溢れ出ているという表現が正確なのかわからないけど、

そういうものを感じた。

東北の紫苑さんという老人ホームの後援会長をしている人のことが

よく出ていたけど、彼女の在りようにも心を打たれた。

死の床に居る相手の呼吸に自分の呼吸を合わせ、

相手の心と一つになる、その在りようも、

身内の人には曇ってしまうことも書かれてあって、

そういう自分に後で気が付いた、というのも載っていた。

あぁ、そうなんだなぁ~と深く頷いてしまった。


著者が或る死にゆく人の言葉を聞いているとき、

その人はひとに対しての悪口非難恨みを来る日も来る日も、

憎悪のこもった顔つきで話すばかりで、

著者は湧き起こって来る自分の感情を抑えるのが大変だった、とあった。

なので、その人のところへ出かけるときは足が重かったという。

そうだろうなぁと思った。それでも著者は出かけた。

そういう話を気持ちを抑えながら聞いていたある時、とうとう、

「なんでそんなふうに思うんですか?」と訊ねて居たという。

それがキッカケで、彼女は幼い頃からの自分を辿る心の旅に出たようだった。

聴いてくれる人が居るから、彼女はどんどん話し、

話して行くうちに、

自分の解釈だけで塗り固められた過去の現象を、

本当はそうじゃなかったのかもしれない・・・と思うようになる。

幼い頃からずっと、

「自分は愛されていない」というところから生きていたことに気付く。

頑張らなければ受け入れてもらえないという自分で、生きて来た。

だから、頑張って来た。

いっぱいいっぱい心の無理をした。

ひとを恨むように非難するように糾弾するようになってしまった。

スタートが間違っていた、と気付いた。

本当は愛されていたと気付いた。

どんどん自分を解放していった。

どんどん顔つきが変わっていった。

そして生まれ変わったようになって、亡くなった。


なんか、読んでいて、いろんな思いが込みあがってくる。

とりとめがないけど、今はこれで終わりにします。






傲慢な自分のこと

2013-09-11 10:42:48 | 本を読んで
鈴木秀子さんという人の「死にゆく者からの言葉」

という本を読みかけている。

まだ三分の一ほども読んでいないのだけど、ここを読んだとき、

いきなり、嗚咽みたいに込み上げて来てしまった。


「母がなくなるとき、弟が『苦しいか』といい続けておりましたけど、

私は『苦しいねえ』といいかえさせました。

『苦しいか』といっている限り、

苦しむ人とそれを聞く人の二人がいます。

向こうとこちらというのではなく、

一緒の立場で共に感じることが大事だと思うのです」

・・という文章。

私の母も亡くなるその前苦しそうにしていた。

息をするのが大変そうだった。

そして会って15分くらいで亡くなってしまった。

前日も苦しそうにしていたという。

私に会うためにそんなに苦しみながら待っていてくれていたのに、

(それはわからないことではあるけれど、そう思っている)

そういう母の立場に立てなかった自分だった。

私は彼女みたいに母の側に立てなかった。

亡くなるその前というそのときの(今ここ)を生きてなかった。

そういう自分の傲慢さがどどーっと押し寄せてきて、

なんて奴なんだ!!と泣けた。

いま、こうして書いていても酷かった自分を味わっている。




新沼謙治さん 氷川きよしさん(勝手な想像だけど)

2013-09-10 15:25:51 | ひとの幸福
「傲慢」の反対語が「謙虚」なんだろうか・・・

お金とか知識とか知恵とか名誉とか地位とかいうものを

持っているということで、それをひけらかしたりすることを、

傲慢な態度とか言うのだろう。

謙虚な態度というのはそういうものを持っていても、

ひかえめで素直(広辞苑より)で、偉ぶらない様子なんだろう。

じゃあ、そういうものを持っていなければ、

謙虚で居られるかというとそうでもないと思う。

そういうものを実際持っていなくても、

そのことで卑屈という傲慢になることも人間にはあるような気がする。

持っていても、持って居なくても、謙虚で居たいものだと思う。

単に伝えるじゃなく、教えてやるという感じになってしまうのも、

謙虚さからは遠いのかもしれない。

どんなこともあって当たり前、という境地に居たら、

なかなか謙虚になれない。

そうだよね~、いろんなものを持っていても、

そうなったのもその人一人力なんてホンのホンの少し・・・

というのは事実なんだから。

「おかげさまで」という心は謙虚さから来る。


新沼謙治や氷川きよしが好きなのも、

謙虚さに憧れる私だからなのかなぁ。

会ったこと無いけどそんなふうに感じてしまう私であった。

福島智さん という人

2013-09-10 14:49:21 | 本を読んで
福島智さんという人と黒柳徹子さんの対談を読んだ。

福島智さんという人は東京大学先端科学技術研究センター教授で、

全盲、聴力無しの人。

3才で右目を、9才で左目の視力を失い、

14才で右耳を、18才で左耳の聴力を失ったという。

18才のその時の気持ちをこう言っている。


「心の中が何も映らない、音のない箱になってしまった。

暗黒の真空状態に放り出されたような感じ。」

「光と音を失ったとき、突然地球上から引き剥がされ、

この空間に投げこまれたように感じた。

自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、

狭くて暗く、静かな世界で呻吟していた。」


そういう失意のときに友人が福島さんの手のひらに指先で

「し さ く は き み の た め に あ る」

と書いてくれたという。


「このコトバは生きる意味を見失いかけていた私の暗やみを照らし、

後に私に生きる力を与えてくれました。

私の命は、そうしたいくつものことばによって裏打ちされている。

私にとって言葉は命であり、命は言葉そのものです。」と。


今は「指点字」通訳という方法でコミュニケーションしているそう。

(指点字とは左右3本ずつの指を点字タイプライターに見立てて

点字を打つコミュニケーション手段。

指点字通訳者の指を通して、対話者の質問や相槌などが福島さんの指に伝えられる)


その指点字で再び言葉・世界を再発見できた・・・・

で、「指先の宇宙」という詩がこの人にある。

「ぼくが光と音を失ったとき

そこにはことばがなかった

そして世界がなかった

ぼくは闇と静寂の中でただ一人

ことばをなくして座っていた

ぼくの指にきみの指が触れたとき

そこにことばが生まれた

ことばは光を放ちメロディを呼び戻した

ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき

そこに新たな宇宙が生まれ

ぼくは再び世界を発見した

コミュニケーションはぼくの命

ぼくの命はいつもことばとともにある

指先の宇宙で紡ぎ出された

ことばとともに」


これを読んでとても感動した。

前にヘレン・ケラーの「奇跡の人」という映画について

ここに書いたことがあったけど、

少女だったヘレン・ケラーが井戸の水を身体で感じた時に、

サリバン先生の手のひらに

「WATER」と手文字で表現した、あのときの感動を思い出した。

ヘレン・ケラーは先天的か、生まれてすぐか、知らないけれど、

ものごころ付いたときから全盲全聴力無しの世界に生きていた。

こうしたいあーしたい、という自分だけの真っ暗な世界に生きていた。


あの井戸のシーンは言葉を得て、

世界が在るということに気付き、

自分が言葉によって、世界とつながれるという歓喜を描いたものだと思う。

宇宙や世界が存在していることを、

言葉が在ることを、

私たち健常者は特別な努力も無しに容易に知ることが出来るから、

存在と認識というからくりに気が付きにくいのかと思う。

全盲全聴力無しの状態で居る人は、

在るものを在ると認識できない。

だって、それをわかるすべがないのだから。

山奥の金塊の話をすぐに持ち出すけど、

山奥に金塊が在っても、それを在ると認識できなかったら、

その人にとって無いのと一緒で、

ヘレン・ケラーは自分以外誰もいない世界に住んでいた。

いや、自分の存在さえ認識できなかっただろう。

認識を表わす言葉が無い世界にいたのだから。

そして、他が無いということは自も無いということだから。


ヘレン・ケラーは中途失明や中途聴力無しじゃないから、

それがある意味当たり前だったのだろうと思うけれど、

自分の欲望以外なんにもなかった世界に、

他が在る、世界が在る、という発見は

歓喜以外なかったのだろうと思う。

その発見以前はヘレン・ケラーは人間ではなかったのかもしれない。

人は人の中で人になるのだから。


福島さんは18才以前には世界を認識できたので、

光と音を失った絶望は大きなものだったろうと思う。

中途で光と音を失った人の失望はどんなものだろうと思う。


指点字という方法を考え付いた人やそれをやってくれる人が居るから、

コミュニケーション出来る。その人たちの凄さを思う。

健常者は自分で見ることが出来、自分で聴くことが出来る。

どうしてもそれが当たり前になってしまう。

そして、自分の観たこと、聞いたことを、

事実かのように意識作用してしまう。

ヘレン・ケラーや福島さんのような人は、

目や耳からの多くの情報にさらされることがないから、

それらに翻弄されないということもあるかもしれない。

目が不自由だと耳の能力がそれをカバーするように高まるものだ

ということを聞いたことがあるし、

そういうことで、自分の意識にとても自覚的になる

ということもあるんじゃないかと思った。

それにしても、こうして目や耳が当たり前に動いていてくれることも、

当たり前だけれど、当たり前じゃないんだと思った。












レスリング・・・から・・

2013-09-09 10:03:14 | ひとの幸福
今朝のニュースでオリンピックにレスリング競技が入ることになったと言っていた。

レスリングで金メダルを幾つも取っている吉田選手が

これでレスリングをやる子供たちに夢と希望を与えられる・・

というようなことを言っていた。

そうなんだろうな、と思った。

でもその考えで行くと、

取り入れられない競技のソフトボールをやる子供たちには

夢や希望がなくなる、ということになる。


昨日一昨日と「イヤだ」シリーズを書いたけど、

片方にとっていいことがもう片方にとってもいいことになる、

というのが本当のいいこと、なんじゃないかな・・・


自分の思いが在ることを無いことのようにしてしまうところの、

(耐え忍ぶ・我慢する)というよくないことは、

結果的に片方にとってもよくないことになる。

(片方にとって、そのときはよくないことも無いけれど)

無意識のうちに相手の為にと思って我慢してしまった自分の思いを

やはり無意識のうちの無いもののようにしたことで、

そうした隠された我慢は、やはり無意識のうちに相手を恨む作用を起こす。

恨むなんていうと大げさに感じるなら、表現を換えると、

相手を疎んじるようになる。

どんなこともそうかと思う。

この世の不幸はそれぞれの自分が自分の思いを尊重しないことから始まる。

それも無意識的だから、解決に至らない。

自分の思いを尊重してないことに自覚がないから。

だから、解決に至る行為にならない。

在るがままでいいのに、その在るがままを否定してしまうことで起こる。

今回の自分の経験でもその通りのことが起こっていた。

どんなときでもそのとき、イヤだ、と感じたなら、

そのときの自分にとってイヤなんだ。

それはいいも悪いもない。そうなんだから。

「イヤなの!」それでいい。

「イヤなの!」に対して、「あら、そうなの」ばかりだったら、

私たちはこんなふうなことにはならなかった。

「そんなことじゃいけません!」をずっとされて来た私たちの宿命かもしれない。

でも宿命は変わる。変わって行くものだ。

脱線か・・・・えーっと、

片方にとっていいことがもう片方にとってもいいことになる、

というのが本当のいいこと。

そうである。これが本当のいいこと。

だからそれぞれの自分は自分の完全幸福だけを求めていればいい。

ひとのことはそのひとがする。余計なことはするな。

これ全部自分にも言ってる。

この完全幸福とはなんぞやということになるけど、

自分さえよければいいという奴じゃない奴。

ううん・・・これも自分さえよければいいなんて思ってるつもりはない、

やっぱり無意識的なもんなんだね~

吉田選手だって、ソフトボールをする子供たち

(みんなオリンピックを目標にしてるわけじゃないと思うけども)のことを、

どうでもいい、なんて思ってるわけじゃないからね。きっと。

レスリングをする子供がいいなら、他はどうでもいい、って思ってるわけじゃない。


いやいや、書いてて思った。こうなんじゃないか・・・

そう吉田選手が言ったら、ソフトボールをやってる子供たちが、

我慢せず、僕たちの夢や希望はどうでもいいと言うんですか?と聴いてみる。

そういった、例えば、傷ついたとしたら、傷ついた側が

「傷ついた」と表明することが、

言った側の自分の無意識的にした行為には、

それが在ったと気がつくようになるキッカケに・・・なり得る。

誰もが自分の意識に自覚的になること、

それがみんなが幸福になる行程なのかと思う。

それもみんなで幸福になれる、なりたい、という欲があればの話だけど。


みんな犯人は(無意識的になっていること)だ。

こういうとき、自覚・納得して・・云々の山岸さんの言葉がいつも浮かんで来る。

顕在意識で、このことは我慢しようと思って、

自覚納得の上、本当に1ミリの無理も無く、

我慢したくて我慢するならそれはストレスにはならないはずだし。


キリスト教で「目覚めよ」とか「叩け、さらば開かれん」とか、あるけど、

目覚めよ、ってそれぞれの自分が自分の意識を自覚しなさいってことだ。

何もクリスチャンになれって言ってるんじゃない。

わたしたちは目を瞑って歩いている夢遊病者みたいだ。

それでも行きたい所がはっきりとあればまだましで、

自分が何処へ向かっているのかもわからない。

だから何処を歩いているのかわからない。

目を瞑っているから暗い、見えない。

目を開けていても、薄目しか開けてないから、法律という行灯が要る。




イヤだ! ④

2013-09-08 13:40:57 | 実例体験観察
ちょうど、さっき、Vさんがうちで貸していたものを返しに来てくれた。

「イヤだ!」シリーズを書いた私にちょうどいい機会だった。

なんの不快感も無くVさんを迎えて夫との3人でお喋り。

いつも通り、Vさんはずっと喋っていた。

その話を聴いていて、このところのVさんの前の自分と違っている自分があった。

あぁ、これだと思った。

Vさんの前に居る自分の意識を注意深く観察している自分だった。

Vさんの在るがままを受け入れていながらも、尚且つ、

アレ?と思うようなことがあった場合に、

それを言わずに居ることで耐え忍ぶようになるようなことがないか?

そういう自分の意識に注視している感じの自分だった。

そして、耐え忍ばずに自分の思うところを落ち着いて出すことが出来た。


このシリーズを書くようになる前の、ここんとこのVさんの前の私は、

Vさんの嵐のような喋くりに翻弄されていたのだった。

いわば、振り回されていた。

そのときそのときの自分の意識を、

注意深く観察しようとしてる自分ではなかったことが、

よくわかった。


自分が話をする時に聴いてくれる人というのはとても心地いいものだけど、

そういう感じではない人の存在は、

今の私にとって一番必要なのかと思う。

必要 と 欲望 は違う。

必要なうちはしぶとく私の傍にそういう人は来てくれるのだろうと思う。


このシリーズを書いてよかった。

多分⑤は無いと思うんだ・・・

イヤだ! ③

2013-09-08 12:48:41 | 実例体験観察
しつこく「イヤだ!」シリーズなんだけど、

私がVさんにそのことを言うのか、言わないのかわからないと①で書いた。

そして昨日の②を書いて、たった今、自分がまた何か書こうとしてる。

何を書き出すのか今のところわからない。

でも、何か内側から表現を求めているものがある。

やってみる。

この文章のタイトルが「イヤだ!」なんだけど、

①を書いた(観察し、考え、照らし合わせ・・)ら、

Vさんに対しての「イヤだ!」は、

自分に対しての「イヤだ!」だったことがわかったのだ。

それに気付かなかったので、Vさんに対して出て来たのだった。

耐え忍んでいる自分を「イヤだ!」と叫んでいる心の奥深くのもう一人の自分を

発見出来た。

Vさんの言動を「イヤだ!」としてる不快感を持った自分は消えた。

なので、Vさんに対面したときの自分から何が出て来るか、

対面したその時でないとわからない・・というのがあった。

けれど、なんだかそれだけでは済まないものを感じて、

書いて(観察し、考え、照らし合わせ・・)みたら、②になった。


①を書く前、ようするに、耐え忍んでいた時は、Vさんが癪に障ってた。

それが解消された。

(一時のことだろう、又むくむくとそれが頭をもたげてくる可能性は大だ)

ま、一時であっても私の不快感が解消されたら、それで終わりか・・・???

が、②を書いて浮かんで来たのだった。

私一人がハッピーになったらそれで終わりか・・・

自分さえよければいいのか・・・

VさんのことはVさんがやるんだけど、

私にも出来ることはある・・・私はキッカケになることが出来る。

(不快感がなくなった私・在るがままを受け取れる私)、そこから、

スタートして、することがあるのに、

それでゴールにしようとしてたんじゃないのか・・・

それが「一人で完結しようとしてた」というコトバに表れたのかと思った。


(Vさんの言動を非難している=それが在ることを否定してる)、

そういう自分は消えたけれど、

Vさんの自分さえよければいいというような言動は、

相手である私にとってもよくないはずで、

当然、それはVさんにとってもよくないことになる。


まだ、途中かも・・・