今からかれこれ8年前のことになります
ある方がご自身のブログ上で私のことを批判する内容を投稿されたことがありました
それを読んだ私は、もう腹立つやら!悔しいやら・・哀しいやら
えらく心が乱れてしまって・・
師であるゆりあ先生にそのことをどのように受け止めたらいいのか?
相談させていただいたことがあります
先生は
「てんてんさん? あなたは聖人でいたいの? アロマのいい先生でいたいの?
私はあなたにあなたらしくいてほしい。
自分の心が穏やかでいられるように、、小さな努力、、されるといいかと思います。
みんなそれぞれ違うんです。
合う人、合わない人、いるのです。
そのすべての方に理解してもらおう・・なんて思ってはだめ
理解されなくても、、いろいろと言われても
私はそんなこと多かったですから
気にしない。 そしてその方達をまったく責めておりません。
だって、、その方達の人生ですから・・。
聖人(いい人)になろうとするから嫌なことを書かれることが嫌なんでしょうね。
「私は・・自分は未熟な修行中の普通の人間」・・って思っているから。
批判されても、、何を書かれても、、言われても、ま・・心が動きません。
だって・・人間ってみんな未熟だから」(後略)
師からいただいたこのメッセージをとても大切にしてまいりました
そう。。人の受け止め方ってほんとそれぞれなんですよね。
そしてその方の人生ですので、その方がどのように受け止めようが
その方の自由なんです
ゆりあ先生が伝えてくださったとおり、かつての私は
自分のことを「未熟者」だと言いながら、、
実はそんなこと・・ぜんぜん思っていなくて・・
むしろその逆・・超×1000ぐらい傲慢で・・
どこかで自分のことをできる人間!神のごとく立派な人間!って思っているから
人から批判されたら、怒りを持ってしまっていたのしょうね(*^。^*)
本当の意味での未熟者は、、批判的なことを書かれても、言われても
それを「批判」だと捉えることなく、、
また「攻撃された」と捉えることもなく
「なるほどね~~そんなふうな捉え方があるのだなぁ~~
学ばせていただいたわ~ 教えていただいてありがとう~~」って思えると思うんですよね~
未熟者というのは謙虚ですから、、どんな人からのどんな言葉や態度からも
「学ばせていただく・教えていただく」という立ち位置にいますので
いろいろと自分とは違う意見を言われたとしても
動じないしびくともしません
むしろ「感謝」なんですよね~。
そして「未熟者」は自分の失敗や過ちを決して責めたりはしません
もちろん、自分がなぜそのような失敗をしてしまったのか?
過ちを犯してしまったのか?
しっかりと振り返って、みつめなおして・・反省して
二度と同じ失敗を繰り返さない努力は大切です
いつまでも、、いつまでも、、自分の失敗や過ちをゆるせない人・・
責め続ける人というのもまた、、それは未熟者なのではなく
やはり超傲慢なだけなんです
「私は失敗なんてしない聖人である 、神のごとく素晴らしい人間なのだ」という
恐ろしいほとの優越感を持っているからだと思うのです
また、、自分の至らなさを責める人というのも同じです。
どこかで
「私は素晴らしき愛深き人間・・できる人間」って思っているので
自分の至らなさを目の当たりにしたとき、、そんな自分を責めてしまのです
愛がない自分だって、、いいじゃないですか~~
できない自分だって、、いいじゃないですか~~
人間だもの・・
人と比べる必要なんてまったくないし
自分のペースで・・これから少しずつ・・少しずつ、、愛を学び・・愛を思い出す小さな努力、、
していけばいいだけのことですから・・
自分を大きくみせる必要はないのですよね・・。
自分の失敗や至らなさを責めながら、
努力するというのはある意味ブレーキをおもいっきりかけながら
必死で自転車のペダルをこいでいるようなもの
ただただ・・しんどいだけで、決して前に進むことはできません
どんな人からも・・どんな出来事からも、どんな失敗からも
「謙虚に学ばせていただく、教えていただく」
そして更に自分を幸せにする小さな努力をする・・訓練をする
なんて愉しくてわくわくする生き方なのでしょう~~
私は自分の知らないことを学ぶ、教えてもらうということが
本来はとっても好きなのだと思います。
これこそが私自身の魂が望んだことだと思うのですね
これから先も
「私は・・自分は未熟な修行中の普通の人間」
として、、肩のちからをぬいて(自分を大きくみせようとしないで)
らくぅ~に生きていきたいと思っています~(*^。^*)