思いの行き違い

2009-08-28 10:54:54 | 出来事

 

大原麗子の葬儀での浅丘ルリ子の弔辞に思うところがあった。

夜中であろうがお構いなしに、他人のこと自分のことの不平不満の一方的な長電話に、もう電話には出たくないと、一時的に距離を置いたときもあったけれど、辛さを分かってやれずごめんなさい ~ という内容だった。

私も、難病を抱えている友人からの度々の長電話に閉口するときがある。
言葉にこそ出さないけれど、いい加減勘弁して欲しいと思う。
浅丘ルリ子の思いに共感する所だ。
そしてその友人からも、同様に浅丘ルリ子の弔辞に思うところがあると電話があった。 彼女は大原麗子の立場に自分を重ね合わせ、どんなに辛かっただろうと思うと、可哀想で涙が出て胸がいっぱいになったと云った。

私は、人を思いやることが出来る、相手の立場になって考えることが出来る、どうしているだろうと案じることが出来る。 けれど、その思いの中で明け暮れする事はない。 日常は忘れているし、例え思っても次の瞬間テレビを見て笑い転げる事だって有る。 所詮、他人事、きっと私は薄情な人間なのだろう。

私には中学時代から懇意にしている友人がいて、この人には親との確執を度々話していた時期があった。 ある時、彼女が知人のことを話すとき 
~ アンタと同ンなじで、いっつも親の悪口云ってるんだわ ~ と言った。 ドキッ!とした。 そうか、そう言う風に思っていたのか、通り一遍の世間の評価の様だと思った。 彼女は、私の生い立ちや環境や生活状況や、勿論親との関係も知っていたので私の悩みを分かってくれている友人だった。 

けれども私は一方で、難病の友人には言葉にこそ出さないけれど、心の中では同様のことをしているのだ。 私は彼女が、貧しさ辛さ苦しさの生活を味わい、そこから現在に至る迄の人世を知っている。 だから分かってくれていると思う私に、病気の愚痴の長電話、私はそれを迷惑と思ってしまうのだ。 

私も友人も、誰彼構わず自分の悩みを話したりはしてない。 けれど、人の心の中は難しい。 友人も、私が病気の電話に辟易していると知ったら深く傷つくだろうから、それは心して、本当に心して改めようと思う。 

大原麗子の死から学んだ事と、ふと思い出した昔の事。