心に沁みて

2005-10-06 06:34:55 | 季節の中で
【折節の移りかはるこそ】 ~第十九段

(一)
 折節(をりふし)の移りかはるこそ、ものごとに哀(あはれ)なれ。
 「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の気色(けしき)にこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、垣根の草もえいづるころより、やや春ふかく霞(かすみ)わたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわただしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひいでらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひすてがたきこと多し。
 
(現代語訳)
 
 季節の移り変わりというのは、何かにつけて趣のあるものだ。
 「しみじみとした情緒は、何と言っても秋がまさっている」と、誰もが言うが、たしかにもっともだと思うものの、今一段と心が浮き立つのは、春のようすであるようだ。鳥の声などもことのほか春めいて、のどかな日の光に、垣根の草が萌え出すころから始まり、次第に春が深まっていき霞が一面にわたって、桜の花もだんだんと咲き出そうとする、ちょうどその折に雨や風が続いて、あわただしく散っていく。その後、青葉になっていくまで、いろいろと気ばかりもんでしまう。橘の花は昔から親しくした人を思い出させる花として有名だが、やはり私にとっては梅の香りによって、過去のこともその当時に立ち返って懐かしく思い出される。山吹が美しく、藤の花房がぼんやりとしたようす、それらすべてに私なりの思いがあり、感慨を断ち切ることができない。
 
 朝の冷気が心地よい季節になりました。
そして、うら悲しい季節になりました。

まさに心浮き立つのは春の景色・・・遠いなぁ~








栗の小枝

2005-10-04 22:44:22 | 折りに触れ思うこと
今日職場に栗の小枝がやって来ました。
青々として凛として、清潔な青年のようで思わず写真を撮りました

然し、栗? それほど好きではありません。と言うか本当に美味しい栗という物を食べたことがないかも知れません。
あの瓶に入った甘露煮みたいな甘ったるい栗や
マロンケーキなる甘い物、どうも口に合いません。先日若い同僚がスーパーで大きな生の栗を見つけたと言って、煮てきてくれました。ワインの風味がしてこれは美味と思いましたが、日常は天津甘栗が一番美味しいと思っている貧乏舌です。
あっ! 「甘栗むいちゃいました」も美味しいです

栗の木もあまり見たことがないですから一度くらい栗の味がする「栗」を食べてみたいものです。

知ってるようで知らない日本語・・・という本

2005-10-02 23:00:57 | 折りに触れ思うこと
言葉の語源、意味を定説に基づき多様な引用で説明しているのですが、その形容と最後の決め言葉が実に主観的で、思わずうそっ?ホント?と笑えてしまう面白い読み物です。

「そつがない」~何がないのか?
高校野球で、四球のランナーが出ると、すかさず盗塁しバントで三塁まで進め、犠牲フライで一点を取る。解説者がもっともらしい顔をして“そつのない攻撃ですね”と誉めあげるが、見ている方はあまり面白くない。野球に限らず、人間でも、失敗や無駄があってこそ興味もわくし、面白みも出てくると云うものだ。この失敗や無駄のことを「そつ」と言う。それがないのだから、「失敗がない」「無駄がない」と言うことになって、決して悪い評価ではない。
ところが、「失敗は成功の母」と言うように、「そつがない男」は、どうも小粒に見える。

「如才ない」~「如才」とはどんな才能か
人間、あるがままに生きよというが、これほど難しい生き方はあるまい。他人に気を遣わずに“ケ・セラ・セラで生きられたら、さぞ楽しいことだろう。
このケ・セラ・セラを中国語で云うと「如在」となる。あるがままだから“手抜かり”もある。
この“在”“才”の字になって「如才ない」と言う言葉が使われるようになった。
手抜かりがないのだから、“気が利く”と言うことだが、とかく「如才ない」
男は信用できないなどといわれる。
もう一度「如在」の初心にかえりたいものだ。

こんな風に、一つの言葉の説明にこんなに長いコラムのような説明が付いています。