令和3年3月7日(日)快晴です。外は3℃で風は冷たいけれども空はいい天気。とちのみ特派員です。
雪壁に挟まれながら、小さなマンサクの花が「ピロロ~ン」(そんな音がしそう)と開いています。
春の足音が少しづつ近づいてきています。
さて、昨日、3月6日(土)朝日中央コミュニティセンターでは、アルゴディア研究会と朝日中央地区自治振興会中央の合同事業「六十里越街道歴史学習会」その2が行われ、参加してきました。
今回のテーマは「六十里越街道における物流について」
講師は、那須恒吉先生(西川町歴史・文化財調査員)です。
那須先生のていねいな語り口で、江戸時代に内陸地方から庄内地方に向けて通過した物資について、志津口留番所を中心にくわしく教えていただきました。
六十里越街道は、江戸時代に出羽三山の「湯殿山への参詣道」として大変にぎわった道でしたが、参詣とは関係しない人の往来もあったそうです。
1.松山藩の役人
2.大山陣屋配下の村役人
3.一般の人々⇒天保6年の参勤交代、清河八郎のほか、多くの人々が往来しました。
人の通路として機能を果たしてきた六十里越街道、物流としては、庄内から内陸へは乾物や塩物等の魚類(いわし、にしん、ます、さけ)が、内陸から庄内へは真綿・青苧(あおそ)・たばこなどが流通したそうです。
ちなみに青苧(あおそ)とは衣料の原料として栽培されたもの。栽培地域は会津と村山地方や置賜地方が有名で、当時は水田の約3倍の収益があったとのこと。
庄内側には大網と田麦俣(末番所)に口留番所が設置され、内陸側には志津に設置され、番所では、今でいう税金がかかる品物(幕末は真綿・青苧・煙草など13品目)のほか、数多くの物品が通過したと考えられています。
当時、物を運ぶときは人力!「背負子」と言われる人たちが荷物を背負って運んだそうです。
江戸時代であれ、冬は雪で道が閉ざされるので、物流での往来は夏がほとんどでした。
今は、人差し指で”ぽちっ”とすると、欲しい荷物が届く時代。
江戸時代、背負子が汗を流しながら庄内・内陸間を行き来して物資を運んだとは、昔の人はすごい!頭が下がる思いです…
六十里越街道は人の往来だけでなく、広範囲にわたって物産の流通路であったこと、よーく分かりました。
六十里越街道は現代においても、六十里越街道、旧国道112号線、国道112号線、高速道と四世代の道が残っています。
時代は変わっても、重要な役割を担う「道」が存在する”あさひむら”(鶴岡市朝日地域)
もっと深く理解しねまねー(しないと)と思いました。
ちなみに、この日の講師、那須恒吉先生の御年は90歳を越えていらっしゃるとか。
途中5分の休けいをはさみ1時間30分の講演は、とても興味深く分かりやすい内容でした。
今回の歴史学習会も、とても充実した時間となりました。またぜひお話をお聞きしたいです。
那須先生、講演いただきありがとうございました!
さて…六十里越街道はまだ雪に覆われていますが、雪どけとともに、今年もあの魅力的な風景があなたを待っていますよ
六十里越街道のくわしい情報はこちらのホームページをご覧ください。
その2おすすめコースなど詳しくはこちらはじめての古道歩き 出羽の古道「六十里越街道」(あさひむら観光協会ホームページ)
まだまださんぶい(さむい)”あさひむら”から、とちのみ特派員がお届けしましたせば、まだの~
鶴岡市朝日地域の観光情報はこちらをご覧くださいあさひむら観光協会ホームページ