西の空
午前中は☀晴れましたが、午後からは☁曇ってきました。
🏠我が家のお花
ドフトゴールド
大天使ガブリエル
ラマリエ
ブルームーン
わかな
プリンセス・ドゥ・モナコ
シェエラザード
パパメイアン
今朝の🍏🍇🍎果物🍍🥝🍊
カバーはローズ色にしました。
少しマットその他に☀太陽の光と風を当てました。
今月の言葉は江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。一八二八年の冬、良寛が七一歳の時、住んでいた新潟の三条に一五〇〇人以上の死者が出る大地震が起こりました。幸いにして、良寛自身には被害はなかったのですが、子供を亡くした山田杜(と)皐(こう)に送った見舞い状にこの一文が出てきます。
見舞い状では「地震は信(まこと)に大変に候。野(や)僧(そう)草庵(そうあん)は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」と生き長らえたために、こういうひどい目を見るのが辛いという気持ちを示した後、冒頭の言葉が出てきます。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという意味の言葉です。どんなに不運が続き、大災害に逢おうとも、それは紛れもない命の現実の姿でしかなく、そのことを「災難」としてしか捉えることができないならば、どこまでもその不運を嘆いて生きて行くしかありません。子供を亡くし悲嘆にくれる友人に対しそのことに一切触れることなく、「人として生まれたからには生老病死からは逃れることはできず、あるがままを受け入れ、その時自分ができることを一生懸命やるしかない」という仏教の教えを語ることで励ました、心のこもった言葉ではないでしょうか。そこには良寛さんの温かい人間味が感じられます。この良寛さんの手紙は、恐らく山田杜皐にとってどんな慰めの言葉よりも救いとなったのではないでしょうか。(宗)
2年前、32歳の時に、私は乳癌であることを宣告されました。娘は3歳、息子はまだ1歳でした。
「治療をして癌が治れば、元の自分に戻れるのだから、大丈夫!」と思っていました。
けれど、そんなに簡単ではありませんでした。
今も、私の身体は、がんと共にあります。
私は、テレビに出る仕事をしていました。
病のイメージをもたれることや弱い姿を見せることには「怖れ」がありました。
なので、当時、私は病気を隠すことを選びました。
隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。
1年8か月、そんな毎日を続けていたある日、
緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。
「がんの陰に隠れないで!」
私は気がつきました。
元の自分に戻りたいと思っていながら、
私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とは
かけ離れた自分になってしまっていたことに。
何かの罰で病気になったわけでもないのに、
私は自分自身を責め、それまでと同じように
生活できないことに、「失格」の烙印を押し、
苦しみの陰に隠れ続けていたのです。
それまで私は、全て自分が手をかけないと
気が済まなくて、
全て全てやるのが母親だと
強くこだわっていました。
それが私の理想の母親像でした。
けれど、
病気になって、
全て全てどころか、
全くできなくなり、
終いには、入院生活で、
子供たちと完全に離れてしまいました。
自分の心身を苦しめたまでの
こだわりは
失ってみると、
それほどの犠牲をはたく意味のある
こだわり(理想)ではなかったことに
気づきました。
そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、
私を妻として、母として、以前と同じく、
認め、信じ、愛してくれていました。
私は、そんな家族のために、
誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。
私は、闘病をBlogで公表し、
自ら、日向に出る決心をしました。
すると、たくさんの方が共感し、
私のために祈ってくれました。
そして、苦しみに向き合い、乗り越えたそれぞれの人生の経験を、
(コメント欄を通して)
教えてくれました。
私が怖れていた世界は、優しさと愛に
溢れていました。
今、100万人以上の読者の方と繋がっています。
人の死は、病気であるかにかかわらず、
いつ訪れるか分かりません。
例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。
私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、
愛する人に出会い、
2人の宝物を授かり、家族に愛され、
愛した、色どり豊かな人生だからです。
だから、
与えられた時間を、病気の色だけに
支配されることは、やめました。
なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。
だって、人生は一度きりだから。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955
Two years ago, when I was 32, I was diagnosed with breast cancer. My daughter was three, my son was only one. I thought: "It'll be OK because I can go back to being how I was before once the cancer is treated and cured." But it wasn't that easy and I still have cancer in my body.
For a long time I hid the disease. Because my job involved appearing on TV I was scared about being associated with illness or showing people my weaknesses. I would try to avoid being seen on the way to hospital appointments and I stopped communicating with people so as not to be found out.
But while wanting to go back to who I was before, I was actually moving more and more towards the shadows, becoming far removed from the person I wanted to be. After living like that for 20 months, my palliative treatment doctor said something that changed my mind.
"Don't hide behind cancer," she said, and I realised what had happened. I was using it as an excuse not to live any more.
I had been blaming myself and thinking of myself as a "failure" for not being able to live as I had before. I was hiding behind my pain.
Until that time I had been obsessed with being involved in every part of domestic life because that was how my own mother always behaved. But as I got ill, I couldn't do anything, let alone everything, and in the end, as I was hospitalised, I had to leave my children.
When I was forced to let go of this obsession to be the perfect mother - which used to torture me, body and soul - I realised it had not been worth all the sacrifice I had made.
My family - even though I couldn't cook for them or drop them off and pick them up at the kindergarten - still accepted me, believed in me and loved me, just like they always had done, as a wife and a mother.
So I decided to step out into the sunlight and write a blog, called Kokoro, about my battle with cancer, and when I did that, many people empathised with me and prayed for me.
And they told me, through their comments, of their life experiences, how they faced and overcame their own hardships. It turned out that the world I was so scared of was full of warmth and love and I am now connected with more than one million readers.
If I died now, what would people think? "Poor thing, she was only 34"? "What a pity, leaving two young children"? I don't want people to think of me like that, because my illness isn't what defines my life.
My life has been rich and colourful - I've achieved dreams, sometimes clawed my way through, and I met the love of my life. I've been blessed with two precious children. My family has loved me and I've loved them.
So I've decided not to allow the time I've been given be overshadowed entirely by disease. I will be who I want to be.
Translation by Mariko Oi
https://www.bbc.com/news/magazine-37861457
今朝の空
今日は一日どんよりとしていました。
6時11分
ご近所のお花
🏠我が家のお花
「ブルームーン」が今日は綺麗です❤️
今朝の🥝🍍🍊果物🍇🍏🍎
旬のものはまだいいのですが、🍌バナナ等は身体を冷やしますので、そろそろ止めた方がいいのですが、母が好きなので少しだし大丈夫かなと思いつつ朝食の時に出しています。
最近、母は時折軽い喘息を起こすようになっていました。
昨日も朝から時折、ヒューヒュー。
ところが、昨夜の7時半過ぎあたりからひどくなってきました。
何かあった時には訪問看護ステーションに電話し、そこからドクターに連絡が行く仕組みですので、電話をしましたが、「どうしよう」「どうしよう」と言われ、なかなか決まりません。
やっと「一応病院に聞いてみます」と言われ、連絡待ち。
しばらくして、お電話があり「外来も閉まっているし、当直医が外部からのドクターで、しかも神経内科だから、収まらないなら救急車で他の病院に行って下さい」と言われました。
今まで「何かがあれば連絡して下さい」と言われていた小規模多機能施設も、土曜日のせいか誰も出られず、ケアマネージャーに連絡しました。
お返事は同じで「救急車で病院に行って下さい」
母はと言えば、「治るわけがないし病院には行かない、ましてや救急車なんてとんでもない」と言います。
救急車使用は娘にも止められています。
(彼女は医者です)
でも、本当にヤバい場合はそんなことは言っていられません。
この場合は静かに看取るというケースでもありませんし。
かなりしんどそうに見えますが、私の判断で仕方がないので、「とにかく楽になるから、病院へ行こう」と言い、車にやっとのことで乗せました。
パーキンソン病のせいもあり、足がふらふらなのでとても危ないし、素人の私にとっては一人での介助はとても怖い。
でも、助けがない以上、私が一人で何とかする以外にありません。
車に乗せた後で、なぜタクシーで行くと言うことを思い付かなかったのかと思いましたが、とにかく「何とか一人でがんばって病院に連れて行かなくては」と思ったのです。
病院へは連絡していましたが、心臓発作やその他の救急患者さんがおられて待たされました。
でも、幸い一番ひどい発作は約30分位で収まっていました。
やっと順番が来て、吸入をして下さいましたが、効果なく1時間の点滴になりました。
点滴が終わっても息をする時にまだ時折ヒューと聞こえてきました。
点滴でも収まらなかった場合は入院と言われていましたが、レントゲン結果も以前と変わりなく、酸素濃度もOKと言われて、お薬と訪問医師へのお手紙を頂いて帰ることになりました。
家に着いたのは11時半。
母は処置をして頂くと楽になることが分かったようです。
それにしても我慢強いと言いますか。。。
私は幼い頃から喘息があり(それを母は知りません)、20歳の誕生日の夜には京都の叔母のところで危うく死ぬところでしたので、喘息については知っています。
(もちろんその時には 病院に行きました。おまけに私には強烈なお蕎麦アレルギーもありますが、それも母は気のせいだと言って未だに信じていないようです💦
私は病気を持っての出産等今まで2回死ぬ目に遭っています)
病院から連れて帰ってきたものの大丈夫かなと思い、昨夜は何度も目が覚めましたが、私がベッドに入る頃には母は気持ちよく寝ていました。
もう本当にやれやれ😥
私の来世でフィアンセとなるらしい友人🤣が「よく頑張った‼️」と言ってくれました🤗
今日は母はお薬が効いているようで、安定した呼吸をしています。
本当にいろいろあります😓が、こうしてひとつずつ乗り越えていく以外にないですね。
それに、病院でつくづく思ったのですが、皆、それぞれが苦しみ又、がんばっている。今、何も苦しみや悲しみがない人でもかつてあったかも知れないし、いずれ体験することかも知れない。
よく覚えていないのですが、息子を亡くし嘆き悲しんでいた母親にお釈迦様が言われたそうです。
「この村で一度も悲しんだことがない人(確か、死人を出したことのない家だったと思います)を連れて来なさい」
誰も居なかったそうで、母親は立ち直られたそうです。
生きて行くって大変ですが、「死」の向こうに、多くの賢人達が見つけられた世界があると私は信じたいです。
ところで、今日は10月4日。
私の霊名(クリスチャンネーム)の保護の聖人の祝日です。
私の霊名は「マリア・フランチェスコカ」と言います。
聖母マリアとアッシジの聖フランチェスコが守護聖人です。
このクリスチャンネームはカトリックに独特のものです。
名前は自分で選ぶことも出来ますし、神父様が考えて下さる場合もありますし、自分の誕生日から決めたりも出来ます。
聖フランチェスコは映画「ブラザーサン シスタームーン」でも有名ですね。
清貧で謙虚な人生を歩まれた方です。
いつかイタリアのアッシジにも行ってみたいです。
今日はこの聖人の有名な祈りをご紹介したいと思います。
世界宗教者会議の場所にも選ばれたアッシジ。
マザーテレサも愛した祈りです。
FOR PEACE
Lord, make me an instrument of your peace,
Where there is hatred, let me sow love;
Where there is injury, pardon;
Where there is doubt, faith;
Where there is dispair, hope;
Where there is darkness, light;
Where there is sadness, joy;
O Divine Master,
Grant that I may not so much seek
To be consoled as to console;
To be understood as to understand;
To be loved as to love.
For it is in giving that we receive;
It is in pardoning that we are pardoned;
And it is in dying that we are born to eternal life.
Saint Francis of Assisi
平和を求める祈り
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
アッシジのフランチェスコ