陽を浴びた福寿草待つ雪間かな
薄氷思いも薄きあれやこれ
陽にあたりなば消えゆく氷
・・・・・・・・・・・
福岡はその昔、音楽の街と呼ばれた。
大陸への玄関口は世界の文化の輸入拠点だった。
戦時中は本場の洋楽に触れることができると全国から人が集まった。
戦後は井上陽水さんらが「ニューミュージック」旋風を起こし、海援隊が九州弁でヒット曲を生んだ。
そして、後に「めんたいロック」と呼ばれた音楽シーンの中心にいたのが、先日亡くなった「シーナ&ロケッツ」の鮎川誠さんだ。
久留米市出身の鮎川さんが初めて洋楽に触れたのは、レイ・チャールズの「ホワッドアイセイ」。
レコード店に通って試聴しては書店で音楽誌を立ち読みし、ラジオであらゆる音楽を吸収した。
1960年代に迎えた思春期はどっぷりと音楽につかった。
誰にも文句を言わせまいと奨学金を得て九州大学を卒業した。
「最初に好きと思ったもの」で人生を送ることができたのはその類いまれな情熱による。
「ルーツが何処にあるか明らかにしておくのがロック」。
表現には、その人の育った環境や価値観がにじみでる。
だから、ロックに古いも新しいもないと語っていた(「博多とロック」書肆侃侃房(しょしかんかんぼう))。
音楽への造詣の深さには誰もが一目置いた。
ブルースの根源をたどるため、米国南部を訪れ、奴隷制の歴史に触れたこともある。
「音楽には一人ひとりが願っちょうことを叶(かな)えるチカラがある」。
74年間の人生を駆け抜けたロックンローラーのルーツである。(北海道新聞卓上四季2023.2.6より)
・・・・・・・・・・・
音楽は友人たちに比べるとそれほど好きではなかったかもしれない。
当時凄く人気のあった舟木一夫にそれほど夢中にはならなかったし、歌手にあこがれたことも無かったように思う。
好きだったことは何かを書くことでその頃は俳句・短歌があるというのも知らなかった。
でも何かをいつもか書いていた。
その頃から俳句や短歌を知っていたらもっとうまくなっていたのかも・・。
好きを極めることはその後の人生を豊かにしてくれますね。
~~~~~~~~~~~
今日は短歌の例会です。
今年から司会等の担当者を持ち回りでやって行こうと先月決めました。
今日はそうなってからの初例会です。
今までのように一人で何もかもというのは止めにさせて貰いました。
でも、皆さん短歌が好きなようで止めようと言っていた人も残って下さり続けることが出来そうです。
網走の短歌の火は消えないね。