昨日の夕方、突然に「娘が『魚忠』に行きたいと言っているから、食事に行こう」と妻が言い出した。
『魚忠』はちょっと高い回転寿司屋さん。娘曰く、おいしい刺身が食べたくなったとの事。
「それなら行きたい者だけで行っと行っておいで、お父さんにはお土産をちょっとあればいいから」と言って、私は風呂へ行った。支部の資料が出来ていないからだ。
風呂でふと、明日は長男の誕生日だという事を思い出した。今ではそれぞれに仕事を持ち、休みがなかなか合わない中、昨日は今うちにいる者全員が揃っている。
資料作りはやめて、「一日早いけど、誕生日のお祝いにみんなで行こう」と言った。
緊急事態宣言が解除されて、愛知県では、ずっとコロナの新規感染者は0である。けれども、東京などの発症があり、はっきり言って不安もある。
そして、妻から「ちゃんとマスクをして!」との号令の下出かけた。店に着くと駐車場はすいていた。しかし、結構待つこととなった。
緊急事態宣言が解除されても、新様式としての対応がされており、席数も以前より減らした感がある。また来客も待つ間、そのグループ毎に間隔を開けている。
言葉も少ない。みなコロナを意識しての食事の感じがある。
私たちは5人で、ボックス席へ入った。お寿司は廻っていない。その代わり色々なメッセージがお皿に載って廻っていた。
タブレットで注文して、店員さんが運んでくる。最低限の会話しかない。
そして、ラストオーダーが8時半過ぎで、9時に閉店だった。
緊急事態宣言が出されて、初めての外食。食事はどうしてもマスクを外す。もし感染者がいた場合の一番のリスクはココだ。と改めて思った。
信頼できる人との食事と、不特定多数との食事。この差は多きい。
家と同じ空間、個室を提供できる外食。こうした事も重要な気がした。
今朝テレビを見ていると、東京で接客するクラブから居酒屋へと、変更した店が紹介されていた。その他、販売するものを変更した店も紹介されていた。それぞれで「研究」して、変更をしている姿とも思えた。
環境を変えるのではなく、環境に適応する。これが自然であろう。
適応する知恵。それで人間は文明を築いて来た。しかし、この知恵におぼれて、環境を変えようとしてきたのが今日ではないかとも思う。
お道のお話で、「天然自然の理」とよく出て来る。自然を知る事。これは神様の理、働きを知る事と同じである。人間の心についても、「八つのほこり」で示して下さっている。本来の心を無視して、ロボットのように働いて、心が壊れる人もある事を考えたら、同じである。
「自分の思いに合わせよう」とするのではなく、「周囲の思いに合わせていく心。周囲と練りあって決めていく心。」これも大切な事ではないかと思う。
「令和」という年号を見た時に、「教祖百年祭」の時に「百という字は、白紙に戻り一から始めるという」と愉達にあったことを思い出して、「令」「ゼロ」からの出発になるのかなぁ。と考えていた。
「ゼロ」は、マイナスではない。土台があっての「ゼロ」である。今までこれで良しと思っていたことを「ゼロ」から考え直してみる事。
そこから、新しいものを作り上げていく、そういう時代のように思えている。
親神様、教祖、今日も一日よろしくお願いします。世界の人々が大難は小難にとお守り頂きますように。