本日、支部例会を無事に行った。
私が支部長になってから、支部連絡報を作成している。昨年一年やってみて、今は教区長挨拶はテープほどきして記載して、それを音読している。
テープほどきという作業は、かれこれ15年ほど行っている。大教会の会報のために始めた。現在大教会会報のテープほどきはしていない。ほどかれたものを確認するようになっている。(不思議な親神様のお導きがあるのだが、その話はまたの機会に。。)
大教会の会報のテープほどきをする前には、支部で学生担当をしていた時、学生が会議をしたいと言い出して、毎月会議を始めた。当時、各教会には学生会に対して良いイメージはあまりなかった。そこで、会議の状況を会報にして支部内・ブロック内(5支部で北部ブロックとなっており、そのブロックでの会議)に配った。
その会議は、夕方から始まり10時ごろまで行っていた。子供たちを送り届けて教会に戻ってから、ワープロに向かって会議の様子を書き出していた。当時はICレコーダーを持っておらなかったが、自然と会話が思い出されて作り上げていた。
今では、つい先ほどの事さえも忘れてしまうのであるから、そんなことは到底できない。
また、大教会の会報のテープほどきも、身上を頂いてから出来なくなり、今、支部長会のテープほどきをするのも、5,6分つづけるのがやっとで、休み休み行っている。だから、とても時間がかかる。(最高にできた時は、1時間のはなしを2時間弱で書き出すことも出来たのだが。。。)
それでも、なぜテープほどきをするのかというと、私の性格で話を曲げてはならないと思うからである。さらには、文字を見ながら聞く事によって、聞く人はより理解できると思うからである。
また、今の支部例会に出席される方は、高齢の方がほとんどである。今の自分を考えても、聞いたこともすぐに忘れてしまうのであるから、口頭の連絡だけで教会内の人々に伝えて頂く事は、無理を言っているも同然だと思うからである。
今日の例会でも「どうか、この話を教会内の皆さまにも、この連絡報を見せてお伝えくださいますように」と話させて頂いた。
そうそう。
ご本部では、各部署に分かれての色々な連絡ごとが教会に流れて来るのだが、その量が半端な量ではない。
ただ話を聞いているだけで正直嫌になる。聞いているだけで、もうやる気もなにもなくなってしまう。興味のあるものならば良いが、そうでない事を聞くのはつらく、それを伝えるという事は、相当の能力がある人でなければ、難しいのではと思ってしまうのである。
例えば、連絡報を作成したとしても、それを読む気にならなければ、配っていても意味はない。配った方は「配った」という満足感だけで、伝わった気になっている場合もあると思ってしまう。
興味のない事でも、文章を音読したならば、その時は聞き逃しても、心に引っかかれば、読み返してくれるだろう。そして読み返してくれれば、ただ配るだけよりもずっと伝わる確率は多くなるはずである。
さて、
現在、コロナでは、不特定多数が集まって、大勢で話をする事は難しい。けれども、限られた少数で行う事は、可能である。反対に少数だからこそ、顔を見ながら理解したか、読み解きながら、その人々に合わせて話すことが出来るのである。
昔の先生方が、ひざ詰めでお話の取次ぎをされていた。巡教をされていた事が思い浮かぶのである。
【巡教とは布教ともいう】
No. :(3巻1844頁13行)
明治26年6月3日
『諸井国三郎、愛知県下講社の事情に付派出の願』
さあ/\尋ねる処/\、さあ/\余儀無く事情と思う処、そら随分一つ/\諭して治め事情、又一つ先の先、一つ先の元諭して事情運んでくれ。順々の元に言う。これ諭してくれ。
『押して、派出の処御許し下さるや願』
さあ/\事情、布教とも言う。一時と言う、先々事情、先の先、元と言う。その諭諭して、その心地一つと言う。これ一つさしづ。
このおさしづには「派出」と書かれてあるが、読むと、巡教は布教だと思えて仕方がない。
さて、
いつもなら、例会を終えて、4時間かけて近鉄で詰所へ入るのだが、妻が「多くの人に接して何かあってはいけないから、車で行くように」と言ってくれて、車でおぢばへ来させて頂いた。お陰で2時間ほど休んで出かける事が出来た。
おぢばについて、神殿へ参拝に行き、境内係に尋ねたら、「明日から、朝づとめから夕づとめまですべての礼拝場が解放される予定」との事である。
その初日の奉仕をさせて頂けることをありがたく思う。
親神様、世界で様々な事が起こっています。どうぞ、お導きをよろしくお願いいたします。