あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

大教会の月次祭が無事に勤められました。。。 コロナで延期となっていた人が母国へ帰ります。

2020年06月24日 10時24分37秒 | 思った事

昨日6月23日、とても快晴の元、月次祭が行われました。

先月の月次祭を終えた時には、準備などは直属教会長夫妻、と役員で行い、おつとめ奉仕者や参拝者は来れる方に来て頂こうと打ち合わせてありましたが、まだまだ、ご本部も一般教会長が昇殿して参拝できる状態ではないので、今月も役員および直属教会長夫妻でのおつとめとなりました。

その代わり、2カ月ぶりに役員会議が行われました。

そして、コロナ終息後の月次祭の行い方について話し合いをしました。

この3カ月ほどで、これまで慣例として行われて、変えた方が思う人がいても出来ずにいたことが、強制的にリセットされて、変わるように仕向けられているように私は感じています。

 

この日本も、コロナで亡くなった方の報道で、多くの方が危機感を持ち、自粛要請に呼応して、収束方向へと進みました。

身上事情を頂いて、自分自身が代わるためには、自分自身の心定めで変われますが、集団が変わるためには、一人だけの心定め、数人だけの思いでは変われないのでしょう。だから、親神様は大変酷だと思われるようでも環境を変えられるのではないでしょうか。

 

いつも私は「こうきをつくれ」という言葉が気になっています。

「こうき」は、陽気ぐらしに代わらせてやりたいがために、親神様が望まれているものです。

けれども、この「こうき」が出来ても、それを用いなければ、変わらないのです。

今、この時に、ご本部自体が変わろうとしている時に、これまではこうだったからと、慣例のままにしていては、それこそ大変な事になるのではないかとも思います。

今、愛知大教会史をひも解いています。そしてそれをより理解するために、山名大教会史(新)を提示しています。(実は新の山名大教会史を提示してもちょっと不十分だと思い、旧の山名大教会史を確認し始めていますので、教会史については時間がかかるかとも思います。)

また、以前には、教祖から直々に聞かせて頂いている言葉を掲載した本も、紹介してきました。「復元」という話もして来ました。

これまで調べて感じている事から「倍化運動」「神様の模様替え」ということについても話をしたいと思っているのですが、時間がなくて書けずにいます。

 

こうした教祖のお話し、そして先人の先生方の歩み、また慣習の変化を思案して、自らの日常に活かす事。活かすための方法を考える事。そこまでは行かずとも、活かそうと思う事。

今この時に、これが大切なのではないかと思っています。

 

昨日、このコロナのために、ブラジルへ帰国できなかった娘さんが、2カ月遅れで帰る事になったと聞き、お別れをしました。

この教えを信じる人、知った人が今では世界中に散らばっています。

明治の時代には、数日かかった距離も、今では数時間で行けるようになり、名古屋などはもう村方の距離にあるのかもしれないと思えるくらいです。

ですから、世界中での不思議の現れ方は、山名へお道の話が届き、名古屋で爆発的に不思議が現れたのと同じように、親神様は世界中にお働き下さっているように思えています。

 

遠ければ遠いほど、親神様のお働きは、次々と顕著に表してくださいます。

しかし、理解はなかなか得られずに、今は大変な苦労をされている事と思います。

(旧の山名大教会史に、警察と山名初代会長とのやり取りが記されており、そうした事を乗り越えての今の日本と思えるのです。)

 

思いつくままに書きました。分かりづらくてすみません。

 

自分の出来る事を、精一杯頑張ります。どうぞ、親神様・教祖、お導きを宜しくお願い致します。

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山名大教会史 第1章 第4節伸びゆく理の芽

2020年06月22日 06時50分35秒 | 旧山名大教会史

引き続き、山名初代 諸井国三郎先生の話であるが、読んでいただいてどのように感じられただろうか。

私が第3節で不思議と感じる点をいくつか挙げておきたい。

吉本八十次氏が番頭のウソに付き合わされて諸井家に入る事柄もさることながら、①2カ月ほどしてから彼がおたすけを始める事、そしてその様子を見ていた国三郎夫婦が、吉本八十次氏がいなくなった後に、②娘の身上に対して夫婦で相談して親神様に願う事などである。

①吉本八十次氏が諸井家に入ってから、農作業をしているのだから、多少のけがはあったと思われるが、多少のけがではなく、二日二晩苦しむ身上に対して神様に願っているのである。そして、先に神様の話をするのではなく、本人の代わりにお詫びをして、御守護を頂いた後に神様の話をしている点である。

その後、不思議な助けを求める人が出来て、雇い主の諸井国三郎夫妻も、その話を聞きながら、おたすけの手助けをしているのである。

②そして、吉本八十次氏がおぢばに帰ってから、奥さんの熱心な態度で、夫婦そろっての心定めをする点である。先の橋本伊平先生の名古屋での布教について、夫婦の様子が書かれてあったが、夫婦の心定め、それも奥さんの定めがどれだけ大切であるかという事を感じるのである。

③助けて戴いたお礼に、明治16年におぢばへ向かうのであるが、おぢばで直接、教祖からお話を承り、力比べをされた後の、心に残るお言葉「道について来ても足場になるなよ。足場というものは、普請が出来上がれば取り払うてしまう。何でも国の柱となれ。」がとても気になった。

普請をするためには、足場も必要なのである。そのために寄せられる人もある。と悟る事も出来ると思う。その中で、諸井国三郎先生は足場になる人ではないが、そうなる可能性もあると言われているように感じた。これが、親神様の人間を見られる見方と思う。

④吉本八十次氏とは、この時に会うのが最後で、いくら探しても消息が分からないという事も不思議である。

以上が、先の第3節での私の感想である。

 

では、次の第4節を添付しておく。どうぞ読んでみてください。

第5節は、次にします。

どうぞよろしくお願いいたします。

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山名大教会史より 山名初代会長の伏せ込みについて、、、第3節 山名の元一日

2020年06月21日 21時33分20秒 | 旧山名大教会史

愛知大教会史第1巻 1-2章- 4・5節 橋本伊平、山名分教会へ引き揚げ・教祖5年祭 

の 最後に、「橋本伊平先生は山名初代会長の命にそのまま従う信仰をもっておられたので、そのままに引き上げられたが、信仰の浅い名古屋の人々の中には、それが理解できない人も多かった事と思われる。」と書いた。

そうした時に、名古屋で信仰に入った人は、この明治23年の時点で1~2年である。そしてこの次の年には、愛知大教会の役員となり、部内教会の会長となっていく。そして、橋本伊平先生は、明治20年に入信して3年目となる。

それに対して、山名初代の諸井国三郎先生は、明治16年に入信して、教祖の元へ何度も帰り、幾多の苦労を乗り越え、そして人を導いてのこの時である。

そこで、山名初代がどれだけの苦労、お仕込みを頂いて神一条の心で通るようになったかを、山名大教会史から見てみたい。

山名大教会史は昭和7年に発刊されたものと、昭和63年に発刊されたものがあるが、読みやすさから、昭和63年のものから、第1章 第3節山名の元一日、第4節伸びゆく理の芽、第5節相次ぐ講元のおぢばがえり、を掲載しておく。

第4節、第5節は次にします。

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感話ってなに?。。昔の話。。親神様の働きを感じるとは。。。昨日コメントをもらって。。。

2020年06月21日 11時48分29秒 | 思った事

修養科に入ると、「感話」という言葉をよく聞くことになる。そして最終的に「感話大会」というものがある。

世間ではほとんど聞く事はない。だから、修養科生さんからは、「感話とは何ですか?」と質問が来る。

昔、この「感話」という事を辞書で調べたことがあったのだが、その辞書にはこの言葉はなかった。

そこで、修養科生には「これまでで、親神様の御守護を感じた、そのことを話せばよいのです。」と答えていた。

実際に、感話大会では、そうした親神様から頂いた御守護の話がほとんどである。

 

先程、WEB検索をしたところ、以下のものが見つかった。

・・・・・・・・・

かん わ [1]【感話】

( 名 ) スル
感化するような話をすること。説教。 「吾れ『忘るゝ能はざるの会』てふ題にて-したる事/欺かざるの記 独歩
 
・・・・・・・・・・・
 
この意味からすると、感話をするという事は、とても難しく、一般にはできない事だと思う。
 
 
私が高校の頃、感話大会なるものがあった。

いつの事か忘れたが、クラスから一人出る事となり、誰も手を挙げる人がなかった。

先生の困った様子を見て、ついつい手を挙げてしまった。その時私自身、ただ感じた話をすればよいものと簡単に考えていた。

先生からも何の指示もなく、当日を迎えた。

そのころの私には、自分自身はもとより、周囲にも、「親神様の御守護を頂いた、ありがたかった、嬉しかった」という事は全く皆無であった。

ちょうどその時は、詰所が新築されて、その詰所に入れる新しい布団にシーツを掛けるひのきしんがあった。

それに参加して、布団屋さんをされている会長さんから、簡単に掛けられる方法を教わる事が出来た。

初めての体験で嬉しく、その方法と、ポイントさえつかめれば簡単にできるという話をした。

全く親神様のお働きなど、一つも入っていない話で終わったのである。

周囲から何も言われることもなかったが、終えてから、「自分自身には、親神様を感じる事がこれまで全くなかった事」に気が付いたのだった。

昔の先生方の話の中には、不思議なお助け、不思議な御守護の話が沢山ある。けれども自分にはない。また周囲にもない。「絶対に親神様はおられるという証拠が欲しい」と思うようになった。

それから5年余り、「不思議な御守護を体験したい」とあえぐ日々となったように思う。

今考えれば、その数年後、同級生がひのきしんの最中に大事故に遭い、一命をとりとめた事、一時的な記憶喪失になったことなどを見せてはもらった。しかし、そのようには感じていなかった。

懸命に同級生のために願いもしたが、どこか「とはいうものの・・・」という感覚で、「絶対に親神様が!!」とは思えなかった。

当時は、「ただただ身上を御守護頂く」という事にしか考えが及ばず、「その家のいんねんなどを知って、今の姿を見る」という事など思いもよらなかったからであろう。と今は思う。

そして、そうした親神様の確信を望んで、回廊拭きや日参など、教えられること、気が付く事を次々と行う日が続いた。

その中に、東西礼拝場竣工の時の団参で、「自分で歩けない人が、回廊を一周する間に、自分で杖も使わずに歩けるようになる」不思議を直前で見せて頂いた。

それからは、この話を事あるごとに話して、親神様はありますと言ってきた。(ほとんどの人が、疑いの目で聞いていたが、それも仕方のない事と今は思う。)

はじめは勇んでいたが、それ以後これと言った不思議も経験することなく、また、自分もどんどんと周囲に流されて、勇めなくなっていった。

その勇みを取り戻すために、環境を変えたいと「布教の家」に行った。

そこで、「自分自身のいんねん切替のための信仰だ」という事を、お願いづとめとおさづけ、そしておたすけさせて頂く人に巡り合わせて頂く事で自覚させて頂いた。

その布教の家を出てから後、今日まで様々な事を通して、今では不思議なお導きの中に生かされていると実感している。

教祖130年祭前にブラジルへ巡教に行かせて頂いた時には、出発する前に、そのブラジルの人々の上に寄り添えるような不思議な巡り合わせも体験もさせて頂いた。

今の私には、高校生の感話大会の時のような親神様の御守護を知らないという事は全くない。

段々と、自分の不思議な体験を話すことが多くなり、最近では人の事情を聞かせて頂きながら、「それは親神様の御守護だったね」と話をすることが多くなってきている。

 

昨日、「自分の性分が変わってきているような気がする」とコメントをもらった。

本当に良かったと思う。ここまで一生懸命に、あきらめずに頑張ってきた結果が、ここに出てきていると思う。これを親神様の御守護と感じて欲しい。そして人々に御守護がある事を話して欲しい。と思う。

聞く人はほとんどないかもしれない。それでもいい。その行いが、親神様の喜ばれることなのだから。

その先にまた、次のステップがある事を信じて。。。

 

どうぞ親神様、これからもお導きをお願いいたします。

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愛知大教会史第1巻 1-2章- 4・5節 橋本伊平、山名分教会へ引き揚げ・教祖5年祭

2020年06月20日 23時15分01秒 | 愛知大教会史

ここからは、どんどんと信者が出来てくる中に、教会内では様々な事情が起こり始める。

また、この『愛知大教会史第1巻』のこのあたりから、山名日記の抜粋、願書や届けの写しなどの資料が多くなりとても読みにくくなってくる。

またこの教会史は、愛知からの視点で書かれているため、山名初代会長の思いは、不明確であり、山名大教会史を合わせて読む必要が感じられる。

まず、第1の事情は、伊平先生の突如の山名引き揚げである。

明治23年1月より名古屋布教に来られた櫨本伊平先生である。それが突如、山名へ引き揚げて、常詰の命が下がったのである。

55頁の資料では、11月14日「名古屋天理教会講社事務所より端書到来」とあり、翌日に、「本日名古屋講社事務所へ昨日の返書、講長橋本氏引き上げ延期願い、難しく応える旨を、会長公より申し送る」とあるので、この前に、常詰の辞令があったことと思われる。

そして、11月28日に山名で新しい役割が示されて、橋本伊平先生夫妻が名古屋から山名へ戻られたのであるが、こうなると名古屋では大変な事になってきた。

まだ先日信仰を始めたばかりの人々ばかりで、取り消しを求めてのことだろうか、12月1日には小柴久七が山名を訪れている。

そしてその対処のためか、渡辺与作(山名役員)が名古屋へ出張する事となり、さらに12月13日「会長公名古屋より帰会」とある事から、山名初代会長は、名古屋にて説明をされて山名に戻られた事が分かる。

では、この一連を、この「愛知大教会史第1巻」でどのように書かれているか。

58頁に

引き上げ後の処置について、小柴久七は早速、12月1日、山名分教会へ出向対策方を種々お願いした結果、山名分教会では役員 渡辺喜作を出張員として、12月8日に名古屋へ派遣された。また山名初代会長も、その治めむきについて来名、主な周旋方と談合され、出張員を芯としてたすけ一条に挺身してくれるよう懇請された。

と記されている。

そしてまた、名古屋市から集会並びに担当任の処置について呼び出しがあり、担当人を橋本伊平から小柴久七にして、布教の件(説教の事と思われる)については山名分教会より出張して行う事を返答している。

そうして、明治24年1月31日には、それまでいた渡辺氏の交代で、柴本氏が名古屋へ来ている。

そして、山名へ戻った橋本伊平先生は、さっそく三州、三河へと出張布教している。

明治24年1月18日 「三州出張橋本氏より、三河北設楽郡・・・」と1月23日 「三河出張、橋本氏より端書、豊橋地方おたすけをなす事」2月1日 「三河出張、橋本氏帰会」より推察できる。

教祖5年祭には、教会本部のお許しは頂かなくとも、名古屋真明組として参列している。これは、41頁の43番にある鶴田嘉七が、「兵神よりにおいがかかり、教祖5年祭に参拝したおりに、「名古屋真明組」の旗を見て、名古屋に天理教がある事を知った」と伝えられている事からも分かる。

橋本伊平先生は山名初代会長の命にそのまま従う信仰をもっておられたので、そのままに引き上げられたが、信仰の浅い名古屋の人々の中には、それが理解できない人も多かった事と思われる。

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愛知大教会史第1巻 1-2章- 2・3節 名古屋真明組の結成・橋本伊平の結婚とおさづけの理拝戴。

2020年06月19日 21時14分52秒 | 愛知大教会史

明治23年1月橋本伊平先生が、柴田久兵衛宅を根城にして布教を開始してから、5月はじめには48戸の講社が出来ることとなる。

これに伴い、5月18日に山名分教会へ講社事務所を設立する願を出し、5月19日付で橋本伊平先生が、「神道天理教会講社愛知県名古屋市講長」に、山名初代会長より任命され、5月22日には名古屋市の警察署へ集会の届け出を出している。

この時の書類、警察署への届け出について、初代会長諸井松太郎先生が、名古屋真明組講社取り締まりの用務を受けて、名古屋へ来ている。

そしてこの事務所の所在地・説教日・名称は、警察署への届け出によると、「名古屋市南伊勢町130番地の柴田久兵衛貸家を事務所」として、講社を取り締まり、「毎月1日、11日、21日」を神様の話を聞く日として、「名称は神道直轄天理教会講社名古屋事務所」しており、この担当任に橋本伊平。信徒総代に柴田久兵衛・柴田安次郎・木村茂助・田中銀次郎・竹内正常・小柴久七がなっている。

また、この住所を当時の地図で調べたところ、48頁にある、愛知県名古屋市南伊勢町2丁目130番戸が場所を特定しやすいと思われる。

詳しい日は分からないが、この後6月9日に諸井氏がおぢばに、出て居るのでその間に、講社事務所の開所式を行われたであろう。との事である。

この2節は、上記の裏付けとなる山名日記と願書、届け、そしてこの講社事務所の周旋人、講社取り締まり役が列記されて分かりずらいと思うが、入信したての人が、周旋人・講社取り締まり(今でいうところの役員)になっているところに注目をしたい。

そこで、周旋人を列記しておく。(任命日)

柴田久兵衛小柴久七竹内正常田中銀次郎・木村茂助・柴田安次郎(5月19日)

杉本誼・伊藤吉次郎・山田治七一色駒三郎(6月1日)

近藤初太郎(7月2日)・市村末彦(7月20日)・木村弥兵衛(8月14日)

石崎金太郎・柴田弥太郎・柴田勝助・白木嘉一(12月14日)

このうち、赤字の者が、9月16日に神道本局に教導職試補推挙願を提出して、12月1日付で教導職試補となっている。

橋本伊平先生は、明治23年4月9日推挙願提出、5月8日教導職試補となっている。(第3節 54頁に記載)

また、改祭届けに対する賞詞状の受書をみると、「神道直轄天理教会長少教正 中山新治郎」となっている。

次の第3節は、名古屋での布教生活とおさづけ拝戴について書かれており、その中に、橋本伊平先生のおさづけ拝戴日が明治23年11月6日とあり、伊平先生のおさづけによるおたすけで道が広がったのではない事が分かる。

また、夫婦そろっての布教の様子も分かると思う。

 

 

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新型コロナから。。今使っているSNS・リモート会議は大丈夫か?という話。 YouTubeより

2020年06月19日 05時35分02秒 | 思った事

SNSやYouTubeなど、個人で情報が発信できるようになり、様々な情報が飛び交っている。

以前より、情報をうのみにしてはならない。自分自身で情報の精査をしなければならない時代だと思っている。

そうした中に、国や団体などでの情報戦が行われている。

そしてまた、新型コロナによる緊急事態宣言により、リモート会議が行われるようにもなっている。

このリモート会議での情報が、吸い取られている可能性があるという話がある。

以前より、このような事は危惧していた。

それを分かりやすくまとめてくれているYouTubeを見つけたので、掲載しておく。

(文章ではないので、記録としてコピペできないので、この動画が削除されたら記録として、保存する事は出来ないが。。。)

【悲報】ZOOMアプリが中国に監視されている!アカウントが次々凍結。私も凍結された模様…

https://www.youtube.com/watch?v=8-3TCKHqclI&fbclid=IwAR2HBq62gr9yOuhr-QPMGTyaUlQZ-8jl-WlckUhJBMhcVSOHBhedTxMhleo

コメントをスクショしてみました。

信用が本当に大切だと思う。

国としての信用もさることながら、人としての信用。

この信用という事も、しっかりと考える必要があると思う。

 

また一つ、表に出て来たことですね。

親神様の思いはいずこに。。。。

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自衛隊の感染者0。。。ずっと気になっていたことが、記事になっていました。。。

2020年06月18日 08時28分27秒 | 思った事

ずっと、気になっていたことが、ネットニュースに出ていました。

地下鉄サリン事件や東日本大震災での放射能汚染下での経験が、蓄積・受け継がれていたのですね。

そして、独自に分析して、対応する行動力ですね。

なぜ自衛隊員にコロナ感染者が発生しなかったのか? 統合幕僚長が語るその“勝因”

以下に、記録としてコピペしておく。

・・・・・・・

なぜ自衛隊員にコロナ感染者が発生しなかったのか? 統合幕僚長が語るその“勝因”

配信 PHP Online 衆知(Voice)

《新型コロナウイルスは米軍やフランス軍の空母で感染者が続出するなど、軍事分野においても猛威を振るっている。 一方、自衛隊は「ダイヤモンド・プリンセス号」での対応で派遣隊員から一人も感染者を出すことなく任務を完遂した。 その「勝因」は何なのか。未曾有の危機をいかに乗り越えるのか。自衛隊制服組トップである山崎幸二統合幕僚長に、自衛隊の底力について聞いた(聞き手:『Voice』編集部・中西史也)》 ※本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号、山崎幸二氏の「『未知なる脅威』から国民を守る」より一部抜粋・編集したものです。

地下鉄サリン事件、東日本大震災の経験を活かして

――新型コロナウイルスへの対応に世界中が苦慮しています。わが国の平和と安全を守る自衛隊として、この事態をどう受け止めていますか。 (山崎)国家の危機であることは間違いありません。この難局に立ち、防衛省・自衛隊のみならず、関係省庁が総力を挙げて対応する必要がある。政府による方針の下、関係省庁及び地方自治体と緊密に連携し、自衛隊の能力を最大限に発揮して対応せねばなりません。 たとえば、今年1月31日~3月16日までのあいだ、中国・武漢からのチャーター機で帰国した邦人や横浜に入港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」においては、感染対応のための災害派遣活動を行ないました。 予備自衛官を含む延べ約4,900名の隊員をもって、医官等による回診や問診票の回収、クルーズ船内の消毒、陽性者の輸送支援などを実施しました。 3月28日からは海外からの帰国者・入国者を対象とする水際対策強化のため、国内の主要な国際空港で検疫や輸送、宿泊施設における生活支援などを実施しています。 4月3日以降は市中における感染拡大防止のため、PCR検査で陽性反応が出た患者の空輸や宿泊施設への輸送支援、同検査のための検体採取支援、さらには感染防護の教育支援などを実施しています。 特徴としては、地方自治体の職員や医療関係者、宿泊施設、タクシーなどの民間事業者に対する感染防護の教育支援ニーズが高かったことです。教育支援では、実技も含め約1,470名の方に「ダイヤモンド・プリンセス号」における自衛隊の活動や防護基準、教訓を紹介しました(5月21日時点)。 ――「ダイヤモンド・プリンセス号」への対応では、派遣隊員から一人も感染者を出すことなく任務を完遂しました。「勝因」は何でしょうか。 (山崎)第一に、防衛省・自衛隊が組織力を発揮できた点が挙げられるのではないでしょうか。船内で起きている状況を迅速かつ的確に把握したうえで、計画を作成、実行できました。 第二に、隊員一人ひとりが責任感と使命感をもち、防護のための基本動作を愚直に実践してくれたこと。 第三に、指揮官が現場で明確な指示・命令を出し、強いリーダーシップを発揮してくれたことです。 今般の感染症対応の災害派遣は、自衛隊創設以来、まさしく未曾有の経験でした。他方、1995年に地下鉄サリン事件、2011年には福島第一原子力発電所事故において、それぞれ化学物質と放射線汚染下での災害派遣を行なっています。 これらは「見えない敵」との戦いである点で、新型コロナへの対応と共通しています。さらにいえば、部隊は平素からNBC(放射能、生物、化学)防護の訓練をしていたため、その恐ろしさや感染防護における基礎動作の重要性を認識していました。

自衛隊中央病院でも院内感染は起きていない

――いかなる脅威であれ、それに立ち向かう備えと覚悟は万全だということでしょうか。 (山崎)災害派遣の開始にあたり、河野太郎防衛大臣から感染防護対策の徹底を指示されました。 それを受けて、われわれは「ダイヤモンド・プリンセス号」における災害派遣の業務ごとの感染リスクを判定し、防衛省独自の防護基準を設定するとともに、隊員がとるべき基本動作を明らかにしました。また、活動するうえでの動線、待機場所の「ゾーニング」も設定しています。 自己完結型の組織である自衛隊には、ウイルスの感染防護に知見を有する衛生部隊がいます。彼らが現地において、一般の部隊に対して教育を行なったことで、感染防護に必要な知識を派遣前から普及しました。 ――感染症への対応では、先が見通せない不安も伴ったと思います。 (山崎)長期の活動に備えて、クルーズ船に近い本牧埠頭に宿泊及び休養場所を確保するため、防衛省が契約している民間船舶「はくおう」を運用しました。その後、派遣隊員の規模増大により、緊急に民間船舶「シルバークィーン」やコンテナハウスも借り上げました。 当初は「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内で何が起きているのかわからず、活動の具体的要領は定まっていなかった。まさしく手探りの状態です。それでも部隊は日々の活動で得た教訓を、直ちに次の活動に活かしてくれた。日ごろの訓練の賜物です。 ――自衛隊中央病院では、新型コロナの陽性患者を多く受け入れながらも、5月下旬現在、院内感染は起きていません。なぜでしょうか。 (山崎)自衛隊中央病院では、標準的な予防策を徹底しています。患者の対応にあたる医官や看護官は、必要に応じてN95マスクやガウンを着用し、手指消毒の感染防護策を実施するほか、日々の業務終了時に体温を測定し、健康管理に万全を期しました。 同病院は新型コロナ以前から感染症指定医療機関に指定されており、定期的に対処訓練を実施していました。今回は初めての実際の任務でしたが、訓練と同じ構えで対処できたことが奏功しました。 とくに院内感染を防止するため、罹患した可能性のある患者の誘導要領や、感染のリスクに応じた個人防護具の選択及び感染症病床の確保は、対処訓練の成果を活用できた事例といえるでしょう。これまでの教育訓練が間違っていなかった証左だと考えています。

平時の感染症対策と訓練が結実

――自衛隊が普段から実践している感染予防対策の徹底ぶりもSNSなどで話題になっています。どのような策を講じているのでしょうか。 (山崎)自衛隊は集団生活・集団行動を基本としているため、ひとりの隊員が一度感染症に罹患すると、隊内に一気に感染が広がる恐れがあります。もしそうなれば部隊の活動基盤は損なわれ、即応性に悪影響を及ぼしてしまいます。 この事態を避けるため、自衛隊の部隊長及び隊員一人ひとりが、新型コロナを含むあらゆる感染予防に対する高い意識をもち、注意を払っています。 具体的には、手洗いやうがいなどの基本的な衛生管理を徹底しているほか、部隊長は部下の健康状態をつねに管理しています。 駐屯地や基地には医務室や健康管理室があり、インフルエンザの蔓延や食中毒の発生防止のための衛生管理も万全です。隊務の運営においては、部隊の精強性を保つために「規律の維持」も重視しています。 ――訓練では「三密(密閉、密集、密接)」の状態にならざるをえないように思います。どのように回避・緩和しているのでしょうか。 (山崎)政府で決定された「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」に基づき、防衛省として自衛隊の特性を踏まえ、教育訓練の要領を決めています。 4月16日に特定警戒区域が全国に拡大された際には、複数の部隊が集合して行なう教育訓練の実施は控え、駐屯地・基地の人員の半数超が参加する訓練は原則として中止・延期しました。 5月14日の緊急事態宣言の一部解除を受けて、緊急事態措置を実施する区域以外の部隊は教育訓練を一部緩和して実施しています。その際にも当然、隊員同士の距離の確保や室内の換気、車両の窓の開放、マスクの着用、手指消毒などの感染防止措置を徹底しています。 自衛隊の教育訓練は、任務完遂に必要な能力を維持・向上するために必要不可欠です。これからも新型コロナの感染状況を適切に判断しながら、「三密」を避ける感染防止措置をとりつつ、できる限りの精度の高い訓練を追求していきます。 ――翻って国外に目を向けると、米軍やフランス軍の空母で感染者が続出するなど、世界の軍隊では新型コロナが蔓延しました。 (山崎)他国軍の感染状況をみて、あらためてわれわれの職場は感染拡大のリスクが高いことを痛感しました。自衛隊では、先ほど述べた感染症対策や教育訓練要領の設定に加え、交代制勤務、テレワークを含む在宅勤務、不要不急の外出の自粛を実施してきました。 現段階では防衛省・自衛隊が一丸となって対策に取り組んできた結果が実を結んでおり、今後も決して気を緩めることなく真摯に対策を講じていきます。

山崎幸二(第六代統合幕僚長)

・・・・・

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新型コロナ。。まだまだです。。感染を広めないために。。。

2020年06月18日 08時18分20秒 | 思った事

今朝、ネットニュースを下の方まで見ていたら、昨日の夜のニュースで、新型コロナのニュースがありました。

帰国者からの新型コロナが感染です。。

ずっと新規感染者がなかったので、注意が必要です。。。。

記録として、ニュースをコピペしておく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

女子中学生と家族が感染 生徒の中学校が18日から臨時休校に 名古屋

配信  CBCテレビ

 名古屋市で新たに女子中学生とその家族ら3人に新型コロナウイルスの感染が確認されました。  生徒の通っている中学校が、18日から臨時休校になります。  名古屋市によりますと、感染が確認されたのは市立中学に通う女子生徒と40代の母親、それに親戚の30代の女性あわせて3人です。  女子生徒には最近の海外渡航歴はありませんが、母親が、6月2日に、パキスタンから帰国し、空港の検疫では陰性でしたが、改めて検査をした結果、17日に陽性が確認されました。  女子生徒の父親は、すでに15日に感染が確認されていました。  女子生徒は、6月9日に頭痛やのどの痛みの症状があり、6月12日まで中学校に登校していました。  学校は消毒のため、18日から3日間、臨時休校となります。  授業の再開は、今後、保健センターが濃厚接触者などを調査した上で判断するということです。

 

 

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愛知大教会史第1巻 1-2章- 1節 先人の入信

2020年06月18日 07時38分15秒 | 愛知大教会史

ここからは、名古屋で入信した信者の話である。そして、次節でまず組が結成されて、その後支教会設立の話となる。

明治22年に7戸の講社が出来ている。これは橋本伊平先生が明治23年1月15日に山名へ入り込んでいるので、山名へ入り込む前の数となる。

そして明治23年は214戸の講社加入ということで、すごい事である。

主な信者を番号を振って列記してあるが、1の坂入泰次郎とは、伊平先生の役者の師匠である。

2の柴田久兵衛は、70才の高齢である。今ならばまだまだ若い感じがするが、当時は相当の高齢である。それが不思議な御守護を頂き、布教師がつとめる上の後ろ盾になったわけである。

また、柴田久兵衛の関係者には赤線を引いておいた。

青線は、熱田分教会の会長をつとめた人である。

後で、話題にしたいので覚えておいて頂きたいのが、8番の市村末彦の年齢が21才という事で、この名簿の明治23年に入信した中では最年少である。

そして、小牧大教会の初代となるのだが、入信のきっかけは、石崎金太郎の妻から橋本伊平先生を紹介されて、御守護を頂いたことである。そして、その市村末彦がにおいがけしたのが、24番白木嘉一となる。

34番杉山芝三郎の後に、「中島郡一宮町に移住、布教す。」と書いてあるが、この人が元で一宮分教会が出来る。しかし、初代会長はこの人ではなく、13番の近藤初太郎である。この近藤初太郎は、後に熱田分教会の会長となる。この事についても後ほど、教会設立のところでふれる事となる。

43番の鶴田嘉七は、幅下、武儀、菅原を設立する元となった人であり、その家系は山名部属の山東分教会になっている。またこの人は、名古屋の人であるが、四国巡礼に行った際に、兵神の人からにおいがかかり、愛知からにおいがけに出た人である。

このように、各地で次々と不思議なおたすけが現れて、信者が出来て行くのである。

8番の市村末彦の部分の詳しい事は、後ほど小牧大教会のところで出て来る。

43番の鶴田嘉七については、断食により出直すこととなり、この時におさしづを伺っている。この件についても、後に述べたいと思う。

ここに列記された、信者の内、現在家系が残っているのは、数件である。

また、この後、教会事情が起こってくるが、これらの人々の名前が出て来るので、注意をして頂きたい。

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このあたりから、教会設立への話になりますが、愛知支教会としてお許しを戴くのが明治24年です。明治22年からわずか2年後です。その翌年、明治25年から部内教会が設立されていくのです。
また、後に出てきますが、橋本伊平先生がおさづけを戴かれたのは、明治23年です。
今日の制度、道の歩みと全く違っているのです。この点も気にして、お付き合いいただければと思います。(Facebook 熱田分教会 記載文)
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