3 争点(3)〔原告らの権利ないし法的利益と侵害について〕
(1)原告らは、本件戦没者との家族的人格的な紐帯を基礎として、遺族の近親者に対する「追悼の自由等」は、故人の人格的存在に不可欠であり、その精神的営みが他者の行為によって乱されることからも保護されると主張する。
ア 人が自らの心情や信条に基づいて何人かを追慕する自由は、誰にでも保障されており、遺族においても、いかにして自らが近親者を敬愛追慕するかを決定する自由等については、この保障の範囲とされるべきものである。
しかしながら、他者の宗教的行為との関係で、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快な感情をもち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至る。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでないかぎり寛容であることを要請しているというべきである(最高裁昭和57年(オ)第902号昭和63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁)。相容れない信仰に対する不快感や嫌悪感などそれ自体を法的利益の侵害として救済を求め得るとすれば、信教の自由を保障した趣旨は全く没却されてしまうからである。
したがって、他者の宗教的行為との関係において、それが強制や不利益の付与を伴うものであるとき、例えば、遺族の宗教的な外部行為に対する事実上の圧迫又は干渉となり、あるいは信仰の対象がその価値を貶められるなど、自己の信教の自由の妨害を生じるような具体的行為が存在するに至ったとき、初めて、その宗教的感情は、法的保護に値すると解するのが相当である。
イ この点、原告らは、追悼の自由等が人格的生存に不可欠な精神作用であることや名誉権との対比などを理由にして、その保護内容としては、近親者をどのように追悼するかなどの精神的営みが他者の行為によって乱されないことを含むと主張する。
原告らにとって、本件戦没者の合祀をその内心的領域において受け入れ難いものとしていること自体については、十分にその立場を理解することも可能であり、その内心的領域が他者の行為によって乱されないことを望む心情等については、社会生活上、他者からも配慮されるべきものということはできる。
しかしながら、名誉権については、人の社会的評価をその保護対象とし、個人の精神的作用自体を直接的に保護するものとは解されない。そして、信仰の対象を選択する自由は、信教の自由の根幹ともいうべきところ、家族の内部における人格的つながりの価値をいかに高く評価しても、他者の信教の自由に基づく宗教的行為との関わりにおいて、家族が近親者の追悼を独占し、又は、他者が近親者を慰霊すること自体により心の静謐が乱されたとして法的救済を求めることまではできないと解すべきである。
原告らは、追悼の自由等が遺族の故人に対する敬愛追慕の情として、裁判例上も法的保護に値する権利ないし利益として確立されているとも主張するが、原告らの指摘する最高裁平成17年(受)第2184号平成18年6月23日第二小法廷判決・判例時報1940号122頁における滝井裁判官の補足意見は、多数意見を支持する立場を前提とし、別の宗旨での故人の追慕を拒否できると述べている部分についても、公権力による追悼を論じたものである。そして、原告らが指摘するその余の裁判例は、遺族の追慕の対象である当該死者を貶め、又は遺体及びこれを対象とする慰霊行為を侵害する行為が存在する事案であって、直接、遺族らの心情を保護したものとは解されない。
ウ 原告らは、被告神社の信教の自由について、①国家と一定の関係を有する私人や私法人とそうでない一個人との間で人権の衝突が問題となる場合、前者の宗教的行為の自由は一定程度制約されざるを得ない、②国との密接な関係を有する被告神社による個人の信教の自由への侵害は公権力の行使と同視して絶対に禁じられるべきものである、③信教の自由は本来個人に認められるものであるから、団体及び組織の信教の自由が個人のそれに優越すると解すべきではないなどと主張する。
しかしながら、憲法20条1項前段は、個人と団体を区別しておらず、宗教団体は、その宗教団体に帰属する個人の集合体であって、個人の信教の自由は、その帰属する宗教団体を通じて発揮されることも多い。したがって、宗教団体外の個人の信教の自由と宗教団体の信教の自由について、一方が他方に当然に優越するということはできない。信教の自由に対する事実上の圧迫又は干渉が生じないかという点についても個別の行為を慎重に検討すれば足り、一般的に、宗教的行為の自由が制約されると解する理由はない。まして、社会的力関係は様々であって、どのような場合にこれを国又は公共団体の権力行使と同視すべきかの判定が困難である上、公権力の行使と社会的事実としての力の優劣関係との間には明確な性質上の区別が存在するのであるから、被告神社の行為を当然に公権力の行使と同視することはできない(最高裁昭和43年(オ)第932号昭和48年12月12日大法廷判決・民集27巻11号1536頁)。
エ 以上の検討によれば、原告らの主張する「追悼の自由等」について、これを人格的な権能を有するものとして、独自の法的な救済を求め得る権利ないし法的利益と捉えることはできないというべきである。
もっとも、前記アのとおり、対象となる被告神社の行為に関し、その態様や具体的な内容によっては、原告らにおいて、なお、法的保護に値する場合があり得るところである。
(ア)被告神社の客観的行為
被告神社における戦没者合祀は、戦没者の氏名等を調査し、合祀基準に合うかを決定するとともに氏名等を記載した祭神名票を作成し、祭神名票の記載を祭神簿に書き写し、さらに祭神簿をもとに霊璽簿を作成し、合祀の祭典を行うという手順で行われる。そして、戦没者の合祀の際には遺族に合祀の通知を送付するものの、被告神社は、それ以外には遺族に対し何らの働きかけや連絡も行わない。さらに、霊璽簿等については、いずれも非公開とされており、合祀に関する情報についても、当該戦没者の遺族からの照会等に対しては回答するものの、第三者からの照会等には応じていない。
(イ)原告らに対する侵害の有無
被告神社における合祀すなわち霊璽簿等の記載及び合祀の祭典については、本件戦没者の合祀が単に合祀社の数を増やす目的からされたとなどは窺えず、その一般的客観的な行為の性質としては、本件戦没者に対する慰霊等のためにされたものであって、総じて、これによって本件戦没者を貶めるものともいい難い。霊璽簿等の記載は、非公開とされており、遺族以外の第三者は、合祀の事実の存否自体を知ることができない状態にあるから、これらの行為によって本件戦没者の社会的評価が低下するなどの自体(ママ)も想定し得ない。
また、合祀に際しては、合祀通知以外の遺族に対する働きかけや連絡は行われず、原告らの一部においては、被告神社に対する照会等の結果、本件戦没者の合祀の事実を知るに至ったものであり、また、原告ら各自において、その信ずるところと流儀に従って本件戦没者を追悼してきたものと窺えるから、被告神社の合祀行為及び合祀通知が原告らに対して事実上の圧迫又は干渉となったとも認めることができない。
(ウ)小括
したがって、被告神社による合祀について、原告らの主張する追悼の自由等に必然的に伴う宗教的な感情や心情に関して、事実上の圧迫又は干渉となり、あるいは信仰の対象がその価値を貶められるなど、原告らの信教の自由の妨害を生じるような具体的行為があったものと認めることはできず、このほか、強制や不利益の付与を伴うものということもできないから、原告らに対する侵害を肯定することはできない。
オ このようにして、結局のところ、本件は、本件戦没者を祭神として祀るという抽象化された合祀行為とその継続行為について、それ自体の違法性を含めた法的な評価が問題となる事案ということができる。
原告らが戦争の被害者であると認識する本件戦没者について、民間人であった者も沖縄における援護法の適用によって陸軍軍属などと認定された上で、被告神社の英霊として祀られていることに対しては、幼少期に悲惨な戦争を体験し、本件戦没者を含めた家族や肉親の死を直接的、間接的に経験した原告らの立場において、その抱くに至った強い違和感、不快感あるいは嫌悪感などについても、理解できないわけではない。
しかしながら、何人においても、何でもってその信仰の対象とするかの選択は、絶対的に保護されるべき価値であって、そのような感情や心情自体を根拠として法的救済を認めることができない理由は、前記アで述べたとおりである。
そうして、戦後、援護法の適用によって軍属扱いされたにすぎない純粋な民間人を祭神化することの宗教的な意味は、被告神社の信教の自由に関する問題であり、仮に、教義的背景に立ち入るのであれば、裁判所に与えられた固有の権限を超えるものであることにほかならない。
(3)以上のとおりであるから、被告神社による本件戦没者の合祀行為及び合祀の継続行為によって、法的救済を求めることができるような原告らの権利ないし法的利益が侵害されたと認めることはできず、原告らの被告神社に対する損害賠償請求及び霊璽簿等からの氏名抹消請求は理由がない。
そして、原告らの被告国に対する損害賠償請求については、前記2のとおり、被告神社の合祀行為及び合祀継続行為との関係において、行為の共同性が認められず、また、被告神社の原告らに対する不法行為が成立しないから、被告国における被告神社の合祀行為の幇助的な態様による関与の有無にかかわらず、被告神社との共同不法行為に基づく請求として、理由がない。
4 争点(4)〔政教分離原則と賠償責任〕について
原告らは、被告国の被告神社に対する戦没者の氏名等の情報提供行為等とこれに要する費用負担が憲法20条3項、89条に違反すると指摘するので、なお、被告国の単独による国家賠償法上の賠償責任の成否につき検討する。
憲法20条3項、89条の政教分離原則は、いわゆる制度的保障の規定であって、私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を確保しようとするものである。したがって、この規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが憲法20条1項に違反して私人の信教の自由を制限し、あるいは同条2項に違反して私人に対し宗教上の行為等への参加を強制するなど、憲法が保障している信教の自由を直接侵害するに至らない限り、私人との関係で当然には違法と評価されるものではない。
これを本件についてみると、被告国の被告神社に対する戦没者の氏名等の情報提供行為等によって原告らの信教の自由等の権利が直接侵害されたと認めることはできないから、憲法20条3項、89条違反を前提とする国家賠償法上の違法行為は認められず、被告国において、これによる賠償責任は生じない。
第3 結論
以上のとおりであり、原告らの被告らに対する請求は、その余を検討するまでもなく、いずれも理由がない。
那覇地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官 平田直人
裁判官 早山眞一郎
裁判官 高橋明宏
(1)原告らは、本件戦没者との家族的人格的な紐帯を基礎として、遺族の近親者に対する「追悼の自由等」は、故人の人格的存在に不可欠であり、その精神的営みが他者の行為によって乱されることからも保護されると主張する。
ア 人が自らの心情や信条に基づいて何人かを追慕する自由は、誰にでも保障されており、遺族においても、いかにして自らが近親者を敬愛追慕するかを決定する自由等については、この保障の範囲とされるべきものである。
しかしながら、他者の宗教的行為との関係で、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快な感情をもち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至る。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでないかぎり寛容であることを要請しているというべきである(最高裁昭和57年(オ)第902号昭和63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁)。相容れない信仰に対する不快感や嫌悪感などそれ自体を法的利益の侵害として救済を求め得るとすれば、信教の自由を保障した趣旨は全く没却されてしまうからである。
したがって、他者の宗教的行為との関係において、それが強制や不利益の付与を伴うものであるとき、例えば、遺族の宗教的な外部行為に対する事実上の圧迫又は干渉となり、あるいは信仰の対象がその価値を貶められるなど、自己の信教の自由の妨害を生じるような具体的行為が存在するに至ったとき、初めて、その宗教的感情は、法的保護に値すると解するのが相当である。
イ この点、原告らは、追悼の自由等が人格的生存に不可欠な精神作用であることや名誉権との対比などを理由にして、その保護内容としては、近親者をどのように追悼するかなどの精神的営みが他者の行為によって乱されないことを含むと主張する。
原告らにとって、本件戦没者の合祀をその内心的領域において受け入れ難いものとしていること自体については、十分にその立場を理解することも可能であり、その内心的領域が他者の行為によって乱されないことを望む心情等については、社会生活上、他者からも配慮されるべきものということはできる。
しかしながら、名誉権については、人の社会的評価をその保護対象とし、個人の精神的作用自体を直接的に保護するものとは解されない。そして、信仰の対象を選択する自由は、信教の自由の根幹ともいうべきところ、家族の内部における人格的つながりの価値をいかに高く評価しても、他者の信教の自由に基づく宗教的行為との関わりにおいて、家族が近親者の追悼を独占し、又は、他者が近親者を慰霊すること自体により心の静謐が乱されたとして法的救済を求めることまではできないと解すべきである。
原告らは、追悼の自由等が遺族の故人に対する敬愛追慕の情として、裁判例上も法的保護に値する権利ないし利益として確立されているとも主張するが、原告らの指摘する最高裁平成17年(受)第2184号平成18年6月23日第二小法廷判決・判例時報1940号122頁における滝井裁判官の補足意見は、多数意見を支持する立場を前提とし、別の宗旨での故人の追慕を拒否できると述べている部分についても、公権力による追悼を論じたものである。そして、原告らが指摘するその余の裁判例は、遺族の追慕の対象である当該死者を貶め、又は遺体及びこれを対象とする慰霊行為を侵害する行為が存在する事案であって、直接、遺族らの心情を保護したものとは解されない。
ウ 原告らは、被告神社の信教の自由について、①国家と一定の関係を有する私人や私法人とそうでない一個人との間で人権の衝突が問題となる場合、前者の宗教的行為の自由は一定程度制約されざるを得ない、②国との密接な関係を有する被告神社による個人の信教の自由への侵害は公権力の行使と同視して絶対に禁じられるべきものである、③信教の自由は本来個人に認められるものであるから、団体及び組織の信教の自由が個人のそれに優越すると解すべきではないなどと主張する。
しかしながら、憲法20条1項前段は、個人と団体を区別しておらず、宗教団体は、その宗教団体に帰属する個人の集合体であって、個人の信教の自由は、その帰属する宗教団体を通じて発揮されることも多い。したがって、宗教団体外の個人の信教の自由と宗教団体の信教の自由について、一方が他方に当然に優越するということはできない。信教の自由に対する事実上の圧迫又は干渉が生じないかという点についても個別の行為を慎重に検討すれば足り、一般的に、宗教的行為の自由が制約されると解する理由はない。まして、社会的力関係は様々であって、どのような場合にこれを国又は公共団体の権力行使と同視すべきかの判定が困難である上、公権力の行使と社会的事実としての力の優劣関係との間には明確な性質上の区別が存在するのであるから、被告神社の行為を当然に公権力の行使と同視することはできない(最高裁昭和43年(オ)第932号昭和48年12月12日大法廷判決・民集27巻11号1536頁)。
エ 以上の検討によれば、原告らの主張する「追悼の自由等」について、これを人格的な権能を有するものとして、独自の法的な救済を求め得る権利ないし法的利益と捉えることはできないというべきである。
もっとも、前記アのとおり、対象となる被告神社の行為に関し、その態様や具体的な内容によっては、原告らにおいて、なお、法的保護に値する場合があり得るところである。
(ア)被告神社の客観的行為
被告神社における戦没者合祀は、戦没者の氏名等を調査し、合祀基準に合うかを決定するとともに氏名等を記載した祭神名票を作成し、祭神名票の記載を祭神簿に書き写し、さらに祭神簿をもとに霊璽簿を作成し、合祀の祭典を行うという手順で行われる。そして、戦没者の合祀の際には遺族に合祀の通知を送付するものの、被告神社は、それ以外には遺族に対し何らの働きかけや連絡も行わない。さらに、霊璽簿等については、いずれも非公開とされており、合祀に関する情報についても、当該戦没者の遺族からの照会等に対しては回答するものの、第三者からの照会等には応じていない。
(イ)原告らに対する侵害の有無
被告神社における合祀すなわち霊璽簿等の記載及び合祀の祭典については、本件戦没者の合祀が単に合祀社の数を増やす目的からされたとなどは窺えず、その一般的客観的な行為の性質としては、本件戦没者に対する慰霊等のためにされたものであって、総じて、これによって本件戦没者を貶めるものともいい難い。霊璽簿等の記載は、非公開とされており、遺族以外の第三者は、合祀の事実の存否自体を知ることができない状態にあるから、これらの行為によって本件戦没者の社会的評価が低下するなどの自体(ママ)も想定し得ない。
また、合祀に際しては、合祀通知以外の遺族に対する働きかけや連絡は行われず、原告らの一部においては、被告神社に対する照会等の結果、本件戦没者の合祀の事実を知るに至ったものであり、また、原告ら各自において、その信ずるところと流儀に従って本件戦没者を追悼してきたものと窺えるから、被告神社の合祀行為及び合祀通知が原告らに対して事実上の圧迫又は干渉となったとも認めることができない。
(ウ)小括
したがって、被告神社による合祀について、原告らの主張する追悼の自由等に必然的に伴う宗教的な感情や心情に関して、事実上の圧迫又は干渉となり、あるいは信仰の対象がその価値を貶められるなど、原告らの信教の自由の妨害を生じるような具体的行為があったものと認めることはできず、このほか、強制や不利益の付与を伴うものということもできないから、原告らに対する侵害を肯定することはできない。
オ このようにして、結局のところ、本件は、本件戦没者を祭神として祀るという抽象化された合祀行為とその継続行為について、それ自体の違法性を含めた法的な評価が問題となる事案ということができる。
原告らが戦争の被害者であると認識する本件戦没者について、民間人であった者も沖縄における援護法の適用によって陸軍軍属などと認定された上で、被告神社の英霊として祀られていることに対しては、幼少期に悲惨な戦争を体験し、本件戦没者を含めた家族や肉親の死を直接的、間接的に経験した原告らの立場において、その抱くに至った強い違和感、不快感あるいは嫌悪感などについても、理解できないわけではない。
しかしながら、何人においても、何でもってその信仰の対象とするかの選択は、絶対的に保護されるべき価値であって、そのような感情や心情自体を根拠として法的救済を認めることができない理由は、前記アで述べたとおりである。
そうして、戦後、援護法の適用によって軍属扱いされたにすぎない純粋な民間人を祭神化することの宗教的な意味は、被告神社の信教の自由に関する問題であり、仮に、教義的背景に立ち入るのであれば、裁判所に与えられた固有の権限を超えるものであることにほかならない。
(3)以上のとおりであるから、被告神社による本件戦没者の合祀行為及び合祀の継続行為によって、法的救済を求めることができるような原告らの権利ないし法的利益が侵害されたと認めることはできず、原告らの被告神社に対する損害賠償請求及び霊璽簿等からの氏名抹消請求は理由がない。
そして、原告らの被告国に対する損害賠償請求については、前記2のとおり、被告神社の合祀行為及び合祀継続行為との関係において、行為の共同性が認められず、また、被告神社の原告らに対する不法行為が成立しないから、被告国における被告神社の合祀行為の幇助的な態様による関与の有無にかかわらず、被告神社との共同不法行為に基づく請求として、理由がない。
4 争点(4)〔政教分離原則と賠償責任〕について
原告らは、被告国の被告神社に対する戦没者の氏名等の情報提供行為等とこれに要する費用負担が憲法20条3項、89条に違反すると指摘するので、なお、被告国の単独による国家賠償法上の賠償責任の成否につき検討する。
憲法20条3項、89条の政教分離原則は、いわゆる制度的保障の規定であって、私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を確保しようとするものである。したがって、この規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが憲法20条1項に違反して私人の信教の自由を制限し、あるいは同条2項に違反して私人に対し宗教上の行為等への参加を強制するなど、憲法が保障している信教の自由を直接侵害するに至らない限り、私人との関係で当然には違法と評価されるものではない。
これを本件についてみると、被告国の被告神社に対する戦没者の氏名等の情報提供行為等によって原告らの信教の自由等の権利が直接侵害されたと認めることはできないから、憲法20条3項、89条違反を前提とする国家賠償法上の違法行為は認められず、被告国において、これによる賠償責任は生じない。
第3 結論
以上のとおりであり、原告らの被告らに対する請求は、その余を検討するまでもなく、いずれも理由がない。
那覇地方裁判所民事第2部
裁判長裁判官 平田直人
裁判官 早山眞一郎
裁判官 高橋明宏