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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

オンドルのある生活

2009-12-08 16:38:08 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 かなり間があいてしまったが、「満州開拓団跡地を訪ねる旅」の続き。
 臥牛吐地区の幹線道路脇にバスを止めて、最初に向かったのは南風原開拓団の跡地。脇道に入ってすぐの所に現地の人が住む家があった。今帰仁開拓団にいたTさんが、自分たちもこういう家に住んでいた、と口にし、皆懐かしそうに家の様子を見ていた。枯れ草を泥土に混ぜて日干し煉瓦を造り、それを積んで壁にした上に梁を渡し、屋根は草葺きになっている。
 開拓団では真ん中から仕切られて一棟に二世帯が住んでいたとのこと。この家が当時のものかは不明だが、Tさんが言うのと同じ作りであった。







 家の側面には土の煙突があり、その横には燃料にするトウモロコシの茎や葉、実を取った軸の保管場所が煉瓦で造られていた。家の近くにも枯れたトウモロコシの茎が積み上げられていた。かまどから床下と壁に煙りが流れるオンドルで暖をとる生活は今も変わっていない。
 『読谷村史 第五巻 資料編4 戦時記録上巻』に北安省の華陽開拓団で暮らした玉城キクさん(昭和5年生)の証言が載っていて、オンドルについて語られている。北安省は臥牛吐開拓団のあった龍江省のすぐ東隣の省であり、生活の様子はほとんど同じだったのではないかと思うので、参考までに紹介したい。

 〈北安省辺りでは、寒さが厳しく、十月から四月頃まではずっと雪で、温度は零下三八度まで下がることもあった。実際、布団を被って寝ていても、朝には布団の上に白く霜が降りていて、防寒用に被って眠っていた毛糸の帽子やマスク、そして眉毛、まつげまでもが白く凍ってしまうほどの寒さであった。冷たいというよりも痛いという感覚で、あの痛みは忘れられない。向こうで使っていた手袋も靴も内側は毛皮で出来ていた。また家には、オンドルという床下暖房の設備があった。これはかまどで火を焚き、その煙が床下、壁を通り煙突から抜けてゆく仕組みになっていた。床も煙で焦げないように泥を固めて作られていたので、その上に油紙を敷きアンペラ(コーリャンで作られたござ)を敷いていた。私たちの一日は、まず朝起きるとかまどに火を付け、釜に水を入れて湯を沸かすことから始まった〉(687~688ページ)。

 亜熱帯の沖縄から満洲へ渡ったウチナンチューにとって、初めて体験する極寒の冬がいかに過酷なものであったかを想う。満洲に来て初めて雪を見た人も少なくなかったはずで、寒さをしのぐ生活の知恵が身についていなかったのだ。それこそ必死で零下三十度以下にもなる冬を生き抜く術を身につけていったのだろう。



 一帯は中国有数の穀倉地帯であり、ほとんどの民家の庭や塀のそばには、ホルスタイン種の乳牛、馬、ロバ、ラバなどの家畜が繋がれていた。アヒルや鶏などを飼っている家も多く、どの家にも番犬がいた。

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