以下の文章は「監視社会ならん!通信」58号(2025年1月10日発行)に掲載されたものです。同通信は辺野古テント村の棚に置かれていますので、ぜひご覧ください。
1971年に「戦争を知らない子供たち」(作詞 北山修/作曲 杉田次郎)という歌が流行った。Wikipediaによれば、初めて披露されたのは1970年8月23日に大阪で開かれた万国博覧会のコンサートだったという。沖縄の施政権返還が間近に迫る時期で、私は小学生だったがテレビやラジオからよく流れていたのを覚えている。
戦争が終わって 僕らは生まれた
戦争を知らずに 僕らは育った
大人になって 歩き始める
平和の歌を 口ずさみながら
僕らの名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
学生運動が盛んだった時代だ。反戦歌として70年代に歌っていた若者たちも今は、「戦争を知らない子供たち」から「戦争を知らない老人たち」になっている。これは皮肉や笑い話として言っているのではない。日本の近・現代史から見て初めてのことであり、大きな意義があることだ。
【「戦争を知らない80代」が持つ意義】
明治維新時の戊辰戦争(1867~68年)のあと西南戦争(1877年)という国内戦を経て、日本は対外戦争の時代に入る。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)に勝利した日本は、アジア地域への植民地支配を拡大し、関東軍の謀略による柳条湖事件をきっかけに満州事変(1931年)を起こして、傀儡国家・満州国を打ち立てる。さらに、その6年後に盧溝橋事件(1937年7月7日)を契機に日中戦争に突入。12月には首都・南京に侵攻するとともに民間人を含む大虐殺を行った。そして、長期化する中国との戦争を続けながら、米国を中心とした連合国とアジア・太平洋戦争(1941~45年)を戦うという愚行に突き進むのである。
1945年8月16日以降に生まれた人は、今年「戦争を知らない80代」になる。これは日本の近・現代史にとって初めてのことだ。1945年8月15日の敗戦まで、日本の近・現代は戦争の連続で、「戦争を知らない老人たち」はいなかったのである。そのことを顧みれば、この80年間、日本が直接の戦争当事国にならず、戦死者を出さなかったことは大きな意義がある。
無論、それは戦争にまったく関わらなかった、ということではない。沖縄・日本は朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などにおいて、米軍の出撃、兵站、中継、訓練などで大きな役割を果たし、米軍が世界各地で行った殺戮と破壊に加担してきた。米軍によって殺される側からすれば、米軍を背後で支える役割を沖縄・日本は果たしていたのであり、その加害責任を自らに問い続けなければならない。
【日本の反戦・平和運動の原動力】
敗戦から80年を迎える今年、これまで日本が戦争を回避できたのは日米安保条約と自衛隊のおかげであり、これからも平和を守るために米軍の駐留と自衛隊の強化が必要だ、という議論が、政府与党や保守陣営から強調されるだろう。それにきちんと反論、批判していくことが重要だ。
憲法9条違反が言われながらも自衛隊の強化が進み、「専守防衛」をかなぐり捨てて海外派兵に踏み出して久しい。米軍との一体化も進んでいるが、まだ米軍と戦闘行動を共にするまでには至っていない。どうにかここまで歯止めとなってきた力は、戦争だけはやってはいけない、という意識が保守派も含めて日本の市民の底流にあったからだ。
80年前、肉親を失い自らも心身に傷をおった市民の戦争と軍部、政治家に対する怒り、否定感は、その後の日本の反戦・平和運動の強い原動力となった。60年安保闘争で、岸内閣打倒!を叫び、激しい運動を繰り広げた市民を駆り立てたのも、戦争の生々しい記憶であり、再び同じ道を歩みだしている、ことへの不安と怒りであった。
70年安保闘争をたたかった世代にしても、80年代の政治への無関心、シラケが言われた世代にしても、両親や祖父母から戦争体験をじかに聞くことができたし、社会のいたるところで活動していた戦争体験者から話を聞く機会があった。まだ、日々の生活のなかで戦争の記憶や否定感が伝えられていた。私にしても80年代に港湾作業やガードマンなどのアルバイトをしながら聞いた戦争体験が、その後の小説を書く力となった。
【焦点ずらしと相対化の問題】
1995年は敗戦から50年の節目だった。それは敗戦時10歳だった戦争体験者が、60歳の定年退職を迎える年でもあった。当時、私は高校の教員をやっていたが、自らの戦争体験を教育現場で生徒に語れる人たちがいなくなっていくのだ、という思いを持った。
戦争体験の継承を考える時、この年はやはり大きな節目だったと思う。同年7月に藤岡信勝らが「自由主義史観研究会」を立ち上げ、97年には「新しい歴史教科書をつくる会」が結成される。歴史教科書から「南京大虐殺」「慰安婦」の記述を削除させる運動が進められ、その流れを受けて2005年8月に大江健三郎と岩波書店を訴える裁判が起こされる。原告らの狙いは教科書から「集団自決」の軍命を削除させることにあった。裁判は原告の敗訴となったが、教科書の記述で日本軍による軍命・強制は曖昧にされていった。
沖縄戦をはじめ歴史体験の継承とは、どのような事実に焦点を当て、それをどのように解釈し、評価するか、という価値判断を伴う。藤岡信勝は「南京大虐殺」「慰安婦」「『集団自決』の軍命」の三つを日本軍の名誉を貶めるとして焦点化し、教科書から削除させることを目的に運動を進めた。そのような右翼勢力による運動は、狙いや対立点がはっきりしていて分かりやすい。
それに比べて、沖縄戦当時の島田叡知事を美化する最近の映画や書籍は、リベラルと言われる人たちによって行われているだけに注意が必要だ。沖縄人に悪いことをした日本人(ヤマトゥンチュー)だけではない、沖縄人の命を救った良い日本人もいた、という形で、日本軍による住民虐殺などの蛮行を否定するのではなく、焦点ずらしや相対化を行っていく。あるいは、沖縄人にも加害の側面はあった、と強調する一方で、日本軍や日本人が沖縄人に行った加害の問題は回避し、深く追及しない。日本人の研究者、表現者が意図的、あるいは無自覚に進めるそのような動きを私は警戒している。