平和行進でヤンバルや中部の道を歩きながら、六三年前に沖縄戦で県内疎開をした人達のことを考えた。沖縄島は小さな島と思われているが、実際に歩いてみれば、那覇から名護までだって二日はかかる。道路も整備されていない時代に、男手を現地召集兵や防衛隊として取られ、女性や老人、子どもたちだけの家族がヤンバルに疎開するのは簡単なことではなかっただろう。もし家族の中に足の弱い老人や病人、体が不自由な人がいればどうすればいいのか。ヤンバルに親戚や知人のない家族は、住む場所や食糧の不安も大きかったはずだ。
当時、沖縄県警察部輸送課長をしていた隈崎俊武という人が、遺稿として『沖縄戦と島田知事』という手記を残している。その中で隈崎氏は、沖縄県内の疎開の様子を次のように記している。
〈…戦略上沖縄県民が、県内に居残ることは危険である、との理由から、九州各県や、台湾に県外疎開することになったが、疎開船が次々と米潜艦の餌となって撃沈され、可憐なる学童達や、多くの県民が海底の藻屑となるに及んで、県外疎開は停頓状態になっていた。
殊に一〇・一〇空襲以後の沖縄の孤立は深刻化し、凡ゆる機能も麻痺状態となり、県外疎開業務も中止するの止むなきに立至っていた。県外疎開と共に県内疎開も実施されていたが、これも輸送力破砕のために停頓していた。
南洋パラオ方面の失陥についで、沖縄の危機も刻々と迫りつつあった。もはや一刻の猶予も許されない・というのがその頃の沖縄の情勢だったのである。
台湾から帰った島田知事は、直ちに職員を督励して、県内疎開の強行の(ママ)着手した。空襲以後、わずかに残った輸送力も(ママ)頼っていては、到底、県内疎開を遂行することは不可能であった。
そこで各市町村毎に、隣保班やを単位に徒歩隊を編成して、移動を促進することにし、老幼病者と必要最小限の荷物のみを、バス・トラック・消防車・荷馬車・機帆船(琉球型帆船)などの輸送力に頼ることにした。
小さな沖縄県といっても南北一二〇粁余、南部島尻郡の人達には少なくとも、八十粁余の行程である。歩くとなれば二泊、三泊からの日程となる。途中の宿泊は、焼け残った小学校や役場等の建物を利用し、土地の婦人会や青年団、消防団等が炊出しの世話をしてくれた。
このように島尻郡の南部町村から北側の町村の順に、昼夜の別なく予め割当てられた、沖縄本島北部の国頭郡の町村の(ママ)向かって県内疎開を強行したが、それすらも安全には行えなかったのである。米爆撃機は、海上の機帆船や陸上のバス・トラックに銃撃を加えるばかりでなく、徒歩の移動隊へも銃撃を浴びせ、ここでも幾多の犠牲者を出したのであった。
宿命の沖縄県民は、県内疎開さえ、幾多の痛ましい犠牲を払いながら、来る日も来る日も、重たい足を引ずる子供を励まし励まし、南から北へと戦禍を避けるために移動したのであった〉(5~6ぺージ)。
隈崎氏は仕事柄、県内疎開を間近で見ていたであろうし、輸送実務に携わってもいたであろう。当時の様子が的確に伝わってくる文章である。隈崎氏は、その後島田知事付となり、戦禍の下で六月十六日まで行動を共にしている。
そのようにしてヤンバルに疎開していった住民は、飢えやマラリアに苦しめられ、さらに日本軍による食料強奪や暴力でも苦しめられることになる。そして、地元の住民から分け与えられた食糧や野草、米軍の残した缶詰や残飯などで生き延びるのだが、栄養失調やマラリアなどによって多くの犠牲者が生み出された。
私が子どもの頃だから一九六〇年代のことだが、戦争中にお世話になった、と祖父母を訪ねてくる中南部の人がいた。今帰仁村に避難民としてきていた人達に、祖父母が食糧などの世話をしていたのだ。戦後二〇年ぐらい経っても、そうやってお礼に来る人がいたのは、戦争中の県内疎開者の窮状を示してもいるだろう。
戦闘が終わったかと思えば、北部ではマラリアが猖獗を極めた。私が子どもの頃まで、戦後あれだけマラリアが流行したのは、米軍がマラリアの菌をまいたからだ、ということがまことしやかに言われていた。米軍も自らが駐留している場所で細菌戦は行わないだろう。戦争で村が破壊され、衛生状態が悪くなったところに医療や衣食住の不備などが重なり、体力の低下した住民が次々と罹患したのではないかと思うが、戦争の犠牲は戦闘が終わったあとも続いたのである。
五月のヤンバルの森はイジュの花が美しい。六三年前、白い花が満開の木の下に、何万人という住民が飢えに苦しみながら身を隠していたのである。
当時、沖縄県警察部輸送課長をしていた隈崎俊武という人が、遺稿として『沖縄戦と島田知事』という手記を残している。その中で隈崎氏は、沖縄県内の疎開の様子を次のように記している。
〈…戦略上沖縄県民が、県内に居残ることは危険である、との理由から、九州各県や、台湾に県外疎開することになったが、疎開船が次々と米潜艦の餌となって撃沈され、可憐なる学童達や、多くの県民が海底の藻屑となるに及んで、県外疎開は停頓状態になっていた。
殊に一〇・一〇空襲以後の沖縄の孤立は深刻化し、凡ゆる機能も麻痺状態となり、県外疎開業務も中止するの止むなきに立至っていた。県外疎開と共に県内疎開も実施されていたが、これも輸送力破砕のために停頓していた。
南洋パラオ方面の失陥についで、沖縄の危機も刻々と迫りつつあった。もはや一刻の猶予も許されない・というのがその頃の沖縄の情勢だったのである。
台湾から帰った島田知事は、直ちに職員を督励して、県内疎開の強行の(ママ)着手した。空襲以後、わずかに残った輸送力も(ママ)頼っていては、到底、県内疎開を遂行することは不可能であった。
そこで各市町村毎に、隣保班やを単位に徒歩隊を編成して、移動を促進することにし、老幼病者と必要最小限の荷物のみを、バス・トラック・消防車・荷馬車・機帆船(琉球型帆船)などの輸送力に頼ることにした。
小さな沖縄県といっても南北一二〇粁余、南部島尻郡の人達には少なくとも、八十粁余の行程である。歩くとなれば二泊、三泊からの日程となる。途中の宿泊は、焼け残った小学校や役場等の建物を利用し、土地の婦人会や青年団、消防団等が炊出しの世話をしてくれた。
このように島尻郡の南部町村から北側の町村の順に、昼夜の別なく予め割当てられた、沖縄本島北部の国頭郡の町村の(ママ)向かって県内疎開を強行したが、それすらも安全には行えなかったのである。米爆撃機は、海上の機帆船や陸上のバス・トラックに銃撃を加えるばかりでなく、徒歩の移動隊へも銃撃を浴びせ、ここでも幾多の犠牲者を出したのであった。
宿命の沖縄県民は、県内疎開さえ、幾多の痛ましい犠牲を払いながら、来る日も来る日も、重たい足を引ずる子供を励まし励まし、南から北へと戦禍を避けるために移動したのであった〉(5~6ぺージ)。
隈崎氏は仕事柄、県内疎開を間近で見ていたであろうし、輸送実務に携わってもいたであろう。当時の様子が的確に伝わってくる文章である。隈崎氏は、その後島田知事付となり、戦禍の下で六月十六日まで行動を共にしている。
そのようにしてヤンバルに疎開していった住民は、飢えやマラリアに苦しめられ、さらに日本軍による食料強奪や暴力でも苦しめられることになる。そして、地元の住民から分け与えられた食糧や野草、米軍の残した缶詰や残飯などで生き延びるのだが、栄養失調やマラリアなどによって多くの犠牲者が生み出された。
私が子どもの頃だから一九六〇年代のことだが、戦争中にお世話になった、と祖父母を訪ねてくる中南部の人がいた。今帰仁村に避難民としてきていた人達に、祖父母が食糧などの世話をしていたのだ。戦後二〇年ぐらい経っても、そうやってお礼に来る人がいたのは、戦争中の県内疎開者の窮状を示してもいるだろう。
戦闘が終わったかと思えば、北部ではマラリアが猖獗を極めた。私が子どもの頃まで、戦後あれだけマラリアが流行したのは、米軍がマラリアの菌をまいたからだ、ということがまことしやかに言われていた。米軍も自らが駐留している場所で細菌戦は行わないだろう。戦争で村が破壊され、衛生状態が悪くなったところに医療や衣食住の不備などが重なり、体力の低下した住民が次々と罹患したのではないかと思うが、戦争の犠牲は戦闘が終わったあとも続いたのである。
五月のヤンバルの森はイジュの花が美しい。六三年前、白い花が満開の木の下に、何万人という住民が飢えに苦しみながら身を隠していたのである。
連日、僭越な書き込みすみません。