
「旧満州開拓団跡地を訪ねる旅」の初日はチチハルまでの移動で費やした。那覇空港に集合したのが午前6時半で、7時40分発の便で大阪へ。関西空港では昼食を入れて3時間半ほど待ち、中国南方航空の午後1時10分発の便でハルビンに向かった。ハルビンから列車でチチハルへ移動して国脈大厦ホテルにチェックインしたのが午後10時頃。ホテル近くのマチヤグヮー(町屋小)で缶ビール(哈尓浜啤酒と名月島啤酒)とつまみを買い、部屋でテレビを見ながら一時間ほど飲んだ。中国では冷やして飲む習慣はないようで、温くはあったが二種類ともすっきりとした飲み心地で良い味だった。

翌日は午前7時からバイキング形式の朝食があり、9時半にマイクロバスでホテルを出発、臥牛吐開拓団跡に向かった。バスの中で現地ガイドのRさんがチチハルの概況を話していたのだが、かつてのソ連との緊張状態の話が興味深かった。40代半ばのRさんが小学生の頃というから1970年前後のことだと思うが、中ソ対立の激化によってチチハルでは核戦争に備え、子どもたちは田舎に疎開して学校生活を送り、父親は地下工事に動員されていたとのこと。
70年代末のベトナムとカンボジア、中国とベトナムとの戦争も、実際は中国とソ連の戦争だった、という話をしていたが、ベト・カン戦争、中越戦争と言われた「社会主義国家間戦争」が起こったのが私が高校3年生の時だった。図書館に置かれた『世界』などを読んで「中ソ代理戦争」という言葉を知り、社会主義国家同士でなぜ戦争をするのか、という素朴な疑問を持った。もう30年前の話だが、日本では「政治の季節」がとうに終わっていたあの当時、チチハルの人たちがソ連との戦争の危機をどれだけ生々しく感じていたかを教えられた。

もう一つ興味深かったのが、満州語を話せるのがごく一部の高齢者だけになってしまっているという話だった。少数民族の言語を保護するため大学に満州語などのコースが設けられているが、学生は英語や日本語を選択したがるので厳しい状況とのことだった。
少数言語の危機と保護の問題は今に始まったことではない。沖縄も9月18日は「シマクトゥバの日」になっていて、いくつか催しが開かれていた。方言札に象徴される教育現場での抑圧や国家の言語政策がよく問題となるが、メディアの発達や人の移動の活発化、政治・経済力の格差など多様な要因が言語の衰微には絡んでいる。Rさんは短く触れただけだったが、中国の消えつつある少数言語の問題が他人事とは思えなかった。

翌日は午前7時からバイキング形式の朝食があり、9時半にマイクロバスでホテルを出発、臥牛吐開拓団跡に向かった。バスの中で現地ガイドのRさんがチチハルの概況を話していたのだが、かつてのソ連との緊張状態の話が興味深かった。40代半ばのRさんが小学生の頃というから1970年前後のことだと思うが、中ソ対立の激化によってチチハルでは核戦争に備え、子どもたちは田舎に疎開して学校生活を送り、父親は地下工事に動員されていたとのこと。
70年代末のベトナムとカンボジア、中国とベトナムとの戦争も、実際は中国とソ連の戦争だった、という話をしていたが、ベト・カン戦争、中越戦争と言われた「社会主義国家間戦争」が起こったのが私が高校3年生の時だった。図書館に置かれた『世界』などを読んで「中ソ代理戦争」という言葉を知り、社会主義国家同士でなぜ戦争をするのか、という素朴な疑問を持った。もう30年前の話だが、日本では「政治の季節」がとうに終わっていたあの当時、チチハルの人たちがソ連との戦争の危機をどれだけ生々しく感じていたかを教えられた。

もう一つ興味深かったのが、満州語を話せるのがごく一部の高齢者だけになってしまっているという話だった。少数民族の言語を保護するため大学に満州語などのコースが設けられているが、学生は英語や日本語を選択したがるので厳しい状況とのことだった。
少数言語の危機と保護の問題は今に始まったことではない。沖縄も9月18日は「シマクトゥバの日」になっていて、いくつか催しが開かれていた。方言札に象徴される教育現場での抑圧や国家の言語政策がよく問題となるが、メディアの発達や人の移動の活発化、政治・経済力の格差など多様な要因が言語の衰微には絡んでいる。Rさんは短く触れただけだったが、中国の消えつつある少数言語の問題が他人事とは思えなかった。