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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

永井良和著『南沙織がいたころ』

2012-06-08 20:43:59 | 生活・文化

 少し前に永井良和著『南沙織がいたころ』(朝日新書)を読んでいたら次の一節があった。

〈一九七二年の春のセンバツ高校野球では、甲子園球場に出かけています。三月二七日の開会式が毎日放送からテレビ中継され、尾崎紀世彦さんとともにゲスト出演しました。尾崎さんが呼ばれたのは、レコード大賞をとった『また逢う日まで』が入場行進曲になったからです。センバツの入場行進曲に前年のヒット曲がもちいられるようになったのは一九六二年の大会、『上を向いて歩こう』からでした。一九七二年のセンバツは沖縄返還を記念する大会で、沖縄から名護高校が出場しました。沙織さんは、同じ沖縄で育った高校生として招かれたのだと考えられます〉(80頁)。

 先頃亡くなった尾崎さんの『また逢う日まで』がヒットしたのと南さんがデビューしたのが1971年。翌年、春のセンバツに名護高校の出場が決まったときには、北部の高校からは初めてということで、北部全体で喜んでいた。当時、名護の東江に住んでいた従兄弟の家に遊びに行く途中、電信柱に名護高校の甲子園出場を祝うポスターが貼られていたのを憶えている。
 従兄弟の家は海の近くにあった。砂浜に下りてキャッチボールをしたり、釣りをしたりして遊んだものだ。ピットゥ狩りも二度見た。海が血で染まり、砂浜に引き揚げられたピットゥが解体される様子をそばで眺めた。その砂浜も埋め立てられ、今は国道58号線の下である。
 ユーチューブに1972年大晦日の紅白歌合戦の映像がある。その年は日中国交正常化が行われ、中国からカンカン、ランランの2頭のパンダが送られた年でもあった。今帰仁のわが家では家族そろってレコード大賞の中継を見て、朝丘めぐみ「芽ばえ」、ちあきなおみ「喝采」を聴いたあとに、紅白歌合戦にチャンネルを変えた。

http://www.youtube.com/watch?v=STEeYeXNtw4

 年が明け、小学校を卒業して中学校に入る頃には、「早春の港」が流行っていた。当時も今もこの歌が一番いい。その後、北部の海岸線は海洋博に向けて工事が進められ、乱開発が問題となり、海は赤土汚染がひどくなっていくのだが…。

http://www.youtube.com/watch?v=b6EwCiTUgFs

 著者の永井氏は同世代で、読みながら思い出すことも多かった。ラジカセという言葉もとっくに死語となったが、好きな歌手の歌をテレビからカセットテープに録音して聴いていた時代もあったのだ。大学生の頃、5時になると必ず下宿に帰り、「ルパン三世」の再放送をカセットテープに録音している同級生もいた。まだビデオが普及してなかった頃の話である。それにしても、だれか「オキコワンワンチャンネル」の映像をユーチューブに投稿してくれないだろうか。

 


 


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