ようやく御本社を望むところまで来ました。
〇御濱は鳥海の靈湖を遙拜する處にして大物忌和魂の神を祭る靈湖は〇鳥の海と稱し曾て瑞鷄瑞鷄湖畔に啄みたりと是此名の因りて起る處なる歟其狀圓滿にして周圍數百頃湖面泓澄として深さ計るべからず〇鍋ヶ森其西に峙ち壘々たる岩石疊重恰鍋を伏せたるが如きを以て名づくと〇伏拜は御本社の遙拜所にして雲烟靉靆の間に神殿を拜することを得べし伏拜既に塵寰にあらず〇御峯の如きは人をして羽化登仙の感あらしむ〇行者嶽の岩頭は役の小角が道路を通したる紀念として自其像を刻したるものなりと傳ふ風雨蝕して古香高し此より左折鐵梯に緣り千歲が谷に下れば陰崖幽暗人をして悚然として毛髮を竪立せしむ仰見る一帶の新山雄大豪宕として巨嚴聳えて萬丈の絕壁を作り大石陷りて千仭の壑を爲し異樣殊態形容端睨すべからず漸く斜に昇れば〇御倉に達す大國主少名彥名の神を祭る〇胎内の奇洞を潛り新山に登ること約三四町にして御本社に達す
鳥海湖、鍋森を遠くに見た後伏拝の拝所で手を合わせます。伏拝嶽は「既に塵寰にあらず」、もうここは塵にまみれた俗世界ではないということです。古絵図を見ると伏拝にも建物の絵が描いてありますが飽海郡誌には伏拝小屋として小屋があったように書かれています。ここで拝した後次に行者嶽に向かいます。行者嶽には拝所開山大神役の小角が前鬼後鬼を従えて登った自分の姿を彫ったという岩があります。
行者嶽開山大神(画像は畠中善弥「影鳥海」記載のもの)
ところで「鐵梯に緣り千歲が谷に下れば」とありますが昭和の初めころまでは、江戸期も含めて千蛇谷とは書かずに「千歲が谷」と書いていました。おそらく仏教の「千歲」に因るのでしょう。昭和以降「仙者谷」その後「千蛇谷」と書くようになったようです。「弦巻池」が「鶴間池」になったり「桑の森」が「観音森」になったり「千歲谷」が「千蛇谷」と書かれるようになってしまったというのは何か違和感、というより字面を変える軽薄さがあるような気がします。では下っていきましょう。
(鉄梯子前の昔の道標です。)
(この写真と次の写真はY.Sさんよりお借りしました。)
行者嶽の鉄梯子はいつごろからあるのでしょうか。明治期の絵葉書にも鉄梯子は写っています。
現在はこの道は落石で崩壊し、通行禁止です。たまたま落石を目にした方の話ではそれは凄まじいものだったそうです。自己責任で行くなんてのは駄目です。後始末は全部他の人がしなければならないのですから。
まっすぐ御本社には向かわず荒神嶽に向かっていきます。荒神嶽では拝所御倉座大国主大神を拝みます。なんといっても三十三拝所を拝することも目的なのです。登拝なのですから。
ここから次は胎内に向かいます。胎内は両側、天井の三方から岩の迫る狭いところです。マイ・アルバムに写真がありませんでしたのでその近くの「巨嚴聳えて萬丈の絕壁を作り」という景色です。
さて、新山に登った後は目的地御本社です。
御本社の裏手に下りてきました。さあ次はいよいよ御本社に。
飽海郡誌にはこんな絵図も載っています。(ついでに、虫穴岩なんて書いていません、虫穴は昔から虫穴で岩の字はつきません。)
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