理想国家日本の条件 さんより転載です。
小名木善行 ねずさんの ひとりごとさんより
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世の人は
我を何とも
言わば言え
我が成す事は
我のみぞ知る
有名な坂本龍馬の句です。
この句を詠んだときの坂本龍馬は、まだ14〜5歳。
できの悪い子で、楠山塾も成績が振るわずに退塾させられてしまうし、よい歳をして寝小便タレだし、泣き虫だし、
剣術道場でもいわゆる「ヘタレ」で全然弱い。
悔しくてならないけれど、どうにもならない。
そんなときに詠んだ句だといわれています。
けれど、ここで「なんと言われようが」と決意したことが、その後の龍馬を変えていきました。
今で言ったら高校生くらいになった龍馬は、師匠が良かったのか、姉の指導がよかったのか、
メキメキと剣術の腕をあげ、江戸に留学までさせてもらって北辰一刀流を学び、長刀免許を得るまでになります。
その後の活躍は、みなさまご存知のとおりです。
日本の商人道をうちたてた石田梅岩は、大店の番頭を退職したあと、普通なら嫁さんをもらい、
のれん分けしてもらって自分で商売を始めるところ、独身のまま長屋でひとり、商人道を説くための私塾をはじめています。
ある日、塾生が誰も来なかった日、ある塾生が梅岩の長屋をのぞいたら、梅岩が誰もいない
長屋の部屋の教室で、たったひとりで(生徒が誰もいなかったのに)講義をしていたそうです。
「商人にも道を打ち立てるんだ」
その志と決意があればこそのことでした。
先日、山田宏先生の思い出話の中から、松下幸之助の言葉をご紹介させていただきました。
松下政経塾で新党を立ち上げようとした山田先生に断固としてダメだと言った幸之助さんが、
ご自身で新党を立ち上げようとしたときに、以前に山田先生があきらめたと聞いた幸之助さんが言った言葉です。
「そうかあ。そりゃあ残念やな。
誰が反対しようが、言い出したらやりぬかなあかん。」
志を立てるということは、そういうことなのだと思います。
一度志を立てたら、たとえ師匠から破門されたとしても、絶対にやりぬく。
その覚悟があってこそ「志」というものです。
私が行いたいのは、「戦後失われつつある日本の文化や歴史や伝統の素晴らしさや凄みを、
あらためて問いなおすための啓蒙活動」です。
ですからたとえば百人一首の歌の解釈ひとつをとっても、戦後的な天皇否定を元にした今風の解釈とは、
内容がまったく異なります。
当然、文法解釈も戦後の学会等の一般的解釈とは部分的に異なります。
たとえばいまの通説は「枕詞には意味が無い」としていますが、私は意味があるとしています。
しかし、たった31文字の中に万感を込めようとするときに、5文字も無駄遣いすると考えるほうが、私には異常に思えます。
それならば、その枕詞がなぜ使われたのか、その意味を解釈しなおしてみる。
するとそれは新説になります。これまでの本などには書いてない。
書いてないから、デタラメだ、間違いだ、誤った解釈だという人がいます。
私はむしろ逆ではないかと思っています。
加えてそもそも詩歌というものは、意図的に文法を無視することで、「あれ?」という疑問を
読み手に抱かせ、そこから歌に深みをもたせるという技術が普通に用いられる世界です。
解釈が先か、文法が先かと問えば、解釈が先であるのがあたりまえ、というのが私の解釈の立場です。
けれど世の中には、何が何でも文法通りでなければならないと主張する人もいます。
そういう人には、日常会話でも、是非、文法通りにしゃべっていただきたいものだと思います。
ちなみにここでいう解釈とは、読み手や選者が「つたえたい感動や意図」のことをいいます。
今回、古事記の本を出版させていただきます。
このブログでも、その一部を部分的にご紹介させていただいたりしています。
私はヤマタノオロチを、現代風に言うなら、いわば「悪露地(おろち)」であると解きました。
古事記には「遠呂智」と書いてあります。そしてこの三字は音を用いただけで、
漢字そのものには意味がないと書かれています。
ということは、古事記に漢字で書かれた「遠呂智」は、カナの「オロチ」と同じということです。
古事記は、その序文で「大和言葉を漢字に同じ意味のものがあれば漢字を使い、
漢字には同じ意味を表す文字がない場合は漢字の音だけを用いた。その場合は注釈を付した」と書いています。
ということはオロチは大蛇ではなくて、何か別なものであるわけで、ではそれはなんだろうというところから、
解析を始めています。
「そんな解釈をしている本は、他にないよ」と言われそうです。
だから本にするし、ブログに書くし、講演でお話するのです。
他にあるなら、書く意味がありません。
その本等を皆様にご紹介すれば足りることです。
数年前、元鎌倉市議の伊藤玲子先生から言われた言葉があります。
「日本を失ってはならないよ。絶対に失っちゃならないよ」
自分自身の中で、日本を失わないため、日本人が日本を見失わなないために、自分にできることをしていこう。
それが自分にとっての志です。
志は、いちど決めたら、それが覚悟です。
覚悟したなら、なにがあってもやりぬくだけです。
私へのいろいろな中傷や悪口があります。
私ばかりでなく、日本を取り戻そうと具体的な活動をしている人、
ある程度名前が知れた人や団体は、ほぼ全員酷い中傷を受けています。
もちろん著名な人で、あまり中傷を受けておいでにならない方もいます。
戦後の日本を憂いているだけの方です。
憂いているだけなら、攻撃する側に実害はないので、放置されます。
けれど、何かひとつでも具体的な提案や活動があれば、徹底的に叩かれます。
なぜなら反日主義者にとっては、敵だからです。
けれど思うのです。
「悪い言霊が1000投げかけられるのなら、
良い言霊を1500投げかけられれば良い。」
これが古事記の教えです。
イサナキとイサナミの最後のお別れのシーンに出てきます。
ミ「愛(いと)しき我が夫の命(みこと)よ、お前がこのようなことをなさるなら、
私は汝の国の人草を一日に千人絞(くび)り殺しましょう」
キ「愛しき我が妻よ、おまえがそうするなら私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」
イサナミが半狂乱になって追いかけてくるシーンばかりが強調されることが多いですが、重要なのはこの会話です。
イザナミは「毎日千人殺す」と言っているのです。
そう言われたら、普通はどうするでしょうか。
たとえばISなどのテロ組織が「日本人をこれから毎日千人殺す」と言ってきたら、どうするでしょうか。
そういう設問なのです。
普通なら「おい、やめてくれ!」と懇願するか、交渉してお金で解決するか、
千引岩を開けて黄泉の国への空爆を開始するかという選択になります。
けれど古事記は、「ならば私はこれから毎日1500の産屋を建てるよ」と答えています。
相手の主張に対して、怒るわけでもなければ、拒否するわけでもない。叱るわけでもない。
受け入れ協調するわけでもない。相手の言いなりになるわけでもない。
ましてお金で解決するわけでもなければ、軍事的制裁を加えるわけでもない。
まったく第三の選択として、もっと多くの子を生むよ、そのために産屋を建てるよ、
もっと精進努力して働くよと答えているのです。
これが日本的和の精神の神髄です。
協調でもなければ、迎合でもない。
対立でもなければ闘争でもない。
相手を受け入れ、それ以上の良い結果を見出しています。
これが古事記に書かれた日本人の知恵です。
誰が何を言おうが、自分で正しいと思うことをする。
私は、悪い言葉を毎日千語も吐き続けたいとは思いません。
だから良い言葉、良いお話を毎日千五百語、書き、話し続けたいと思います。
それは産屋を建てるほどの立派な行いにはなれないかもしれないけれど、産屋を建てるための
柱一本を担ぐくらいの小さな活動かもしれないけれど、それを毎日続けたいと思います。
それが古事記の教えです。
いま、イジメや中傷などで悩んでおいでの方もおいでかもしれません。
けれど冒頭に書きましたように、
「世の人は我を何とも言わば言え
我が成す事は我のみぞ知る」
なのです。
こうと決めたら、テコでも動かない。
正しいと信じたら、他人が何を言おうがどこまでもやりぬく。
それが日本の神話が教える日本人の生き方なのだと思います。
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毎回、会場は80名の会場が満員御礼です。
次回は12月26日です。
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