「テレパスアート」の話の続きです。
阪神淡路大震災がきっかけとなって始まった「自動書記」による線描画(宇宙画)から、そんなふうにして自然に「ヒーリングアート」に移行し(2004年秋からはアクリル彩色による「テレパスアート」に変更)、今春で15周年を迎えます。
今日は、ごく初期の頃の印象に残っている絵についてお話します。
ある若い女性からおばあさん(祖母)の絵を頼まれました。その方はご高齢の上、(自宅か病院かは忘れましたが)病気で療養中ということでした。描いてみると(私の場合描き終わるまでどんな絵になるかは私自身にもわかりません。先にイメージが浮かんでそれを描くというのではありません)、なぜかそのおばあさんの若い頃の「お嫁入り」の風景になりました。
それは古風な(その当時のままの?)お嫁入り風景のようで、角隠しの「花嫁衣装姿」で、なぜか川船(渡し)に乗って岸辺に着いたところのようでした。
そして偶然にもその絵を描き終えた頃に、ちょうどそのおばあさんが亡くなったという知らせが来ました。
それで(その頃は電話で絵の説明をしていたのですが)その絵の意味を、彼女にお伝えしました。
もしかしたらそのおばあさんにとっては、若い頃のその初々しいお嫁入りの時が、「この世での最も仕合せな時」だったのかもしれない、と。
そして、おばあさんは死の床でその時の気持ちや風景をまざまざと思い浮かべながら、まるで自分が再度お嫁に行くような?華やいだ晴れやかな気持ちで、あの世(向こう岸)へと安心して渡って逝かれたのではないでしょうか?とお伝えしたのでした。
人はそんなふうに、死の間際にはもしかしたら「自分が最も幸せだった時のこと」を思い浮かべるのかもしれないと感じた、それはとても印象に残る絵でした。
またそれだけでは無く、一枚の絵がさまざまな重層的な意味を含んでいると感じます。
例えばこの絵では、かつてはお嫁に行くことはまるで「死に赴く」ぐらいの覚悟の要ることだったことを想像させます。
その絵には相手(花婿)の姿は描かれていませんでしたが、昔は「相手の顔も知らずに嫁ぐ」ことも多かったことでしょう。
「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、花嫁衣装が死に装束姿?の白無垢だったのも、そういう覚悟をうながすものでもあったのかもしれません。
それでもこの亡くなった女性にとっては、若かりし頃のそのお嫁入りの時こそが「最も心躍る期待に満ちた最高の時!」だったのではないでしょうか?
そしてそれはまた、「死」というものがそんなふうに決して暗いマイナスなものでは無く、遺された孫娘(絵を頼んだ人)に対してその女性(祖母)が、「死を決して怖れないように、また私の死を嘆かないように。私はとても幸せな気持ちで彼岸に渡って逝くのだからね。安心してね」ということを伝えたかったのではないかという気がします。
その絵を描かせていただき、「死」に対してもそういう観点から臨むことも出来るのだと私も初めて気づかせていただき、今でもとても感謝しています。
結婚するということは、ある意味で「エゴ」(自我)との闘い?という面もあるのかもしれませんが、「死」はそういう意味では「エゴ」の終わりというか、肉体の終わりではあっても、決して魂の終わりでは無く、そこからまた新しい人生が始まっていくのだということも、絵から教えられました。
まるでお嫁にいく(神の花嫁になる=宇宙と合体する!?)ような新鮮な気持ちで、
ワクワクと死んでいける時代がすでに来ているのかも?
かく言う私は誰よりも「こわがり」なので、エラソーなことは言えませんが。
阪神淡路大震災がきっかけとなって始まった「自動書記」による線描画(宇宙画)から、そんなふうにして自然に「ヒーリングアート」に移行し(2004年秋からはアクリル彩色による「テレパスアート」に変更)、今春で15周年を迎えます。
今日は、ごく初期の頃の印象に残っている絵についてお話します。
ある若い女性からおばあさん(祖母)の絵を頼まれました。その方はご高齢の上、(自宅か病院かは忘れましたが)病気で療養中ということでした。描いてみると(私の場合描き終わるまでどんな絵になるかは私自身にもわかりません。先にイメージが浮かんでそれを描くというのではありません)、なぜかそのおばあさんの若い頃の「お嫁入り」の風景になりました。
それは古風な(その当時のままの?)お嫁入り風景のようで、角隠しの「花嫁衣装姿」で、なぜか川船(渡し)に乗って岸辺に着いたところのようでした。
そして偶然にもその絵を描き終えた頃に、ちょうどそのおばあさんが亡くなったという知らせが来ました。
それで(その頃は電話で絵の説明をしていたのですが)その絵の意味を、彼女にお伝えしました。
もしかしたらそのおばあさんにとっては、若い頃のその初々しいお嫁入りの時が、「この世での最も仕合せな時」だったのかもしれない、と。
そして、おばあさんは死の床でその時の気持ちや風景をまざまざと思い浮かべながら、まるで自分が再度お嫁に行くような?華やいだ晴れやかな気持ちで、あの世(向こう岸)へと安心して渡って逝かれたのではないでしょうか?とお伝えしたのでした。
人はそんなふうに、死の間際にはもしかしたら「自分が最も幸せだった時のこと」を思い浮かべるのかもしれないと感じた、それはとても印象に残る絵でした。
またそれだけでは無く、一枚の絵がさまざまな重層的な意味を含んでいると感じます。
例えばこの絵では、かつてはお嫁に行くことはまるで「死に赴く」ぐらいの覚悟の要ることだったことを想像させます。
その絵には相手(花婿)の姿は描かれていませんでしたが、昔は「相手の顔も知らずに嫁ぐ」ことも多かったことでしょう。
「結婚は人生の墓場」という言葉もあるように、花嫁衣装が死に装束姿?の白無垢だったのも、そういう覚悟をうながすものでもあったのかもしれません。
それでもこの亡くなった女性にとっては、若かりし頃のそのお嫁入りの時こそが「最も心躍る期待に満ちた最高の時!」だったのではないでしょうか?
そしてそれはまた、「死」というものがそんなふうに決して暗いマイナスなものでは無く、遺された孫娘(絵を頼んだ人)に対してその女性(祖母)が、「死を決して怖れないように、また私の死を嘆かないように。私はとても幸せな気持ちで彼岸に渡って逝くのだからね。安心してね」ということを伝えたかったのではないかという気がします。
その絵を描かせていただき、「死」に対してもそういう観点から臨むことも出来るのだと私も初めて気づかせていただき、今でもとても感謝しています。
結婚するということは、ある意味で「エゴ」(自我)との闘い?という面もあるのかもしれませんが、「死」はそういう意味では「エゴ」の終わりというか、肉体の終わりではあっても、決して魂の終わりでは無く、そこからまた新しい人生が始まっていくのだということも、絵から教えられました。
まるでお嫁にいく(神の花嫁になる=宇宙と合体する!?)ような新鮮な気持ちで、
ワクワクと死んでいける時代がすでに来ているのかも?
かく言う私は誰よりも「こわがり」なので、エラソーなことは言えませんが。