昨日(1月11日)で東日本大震災から10ケ月になった。まだまだたくさんの行方不明の方々がおられることに心が痛む。
せめて一周忌までには全員の安否が判明されますようにと心から願っている。
たまたま昨日は私の友人のつれあいの一周忌でもあり、神戸に出かけた。友人宅は神戸の高台にあり、帰路のバスの窓から夕暮れの海を眺めながら、阪神淡路大震災のことを思い出していた。
その頃私は淡路島の見える対岸の海辺の街に暮らしていた。職場は東灘区にあり、1995年(平成7年)1月17日は通常なら休みの日であったが、その日は「棚卸し」のため全員が臨時出勤の予定になっていた。
もしも地震の起きた時刻が2時間後だったら、私は確実に命を落としていたと思う。あるいは間違いなく大怪我をしていただろう。
東灘区は一番死者が多く出たところでもあった。職場では同僚7名が亡くなった。途中の駅は倒壊し電車は全て不通になった。
職場のあったビルが炎に包まれ、その上をヘリコプターが舞っていた情景が何度も繰り返しテレビに映し出されていたのを思い出す。もちろんこの映像はビデオ放映で後日見たのだが、今ではまるで自分がその場に居たかのように記憶に焼き付いてしまっている。(ここまで書いてなぜか急に涙があふれてきて、書き続けるのが苦しくなる)
どれだけたくさんの人がこの大震災で家族や友人を失い、家を失い、また仕事を失ったことだろう。。
毎年のように、年の暮れからこの時期の前後は気持ちが塞ぐことが多いのは、精神的な後遺症でもあるのだろうか。
この阪神淡路大震災から7年が過ぎる頃までは、毎朝のように地震の起きた時刻には目が覚めてしまって眠れなかったが、私の体もそれを忘れることが出来なかったのだと思う。
今日、この話を書くことを(オーリングテストで)決めて書き始めたのだが、今でもこんなに涙が出るとは、自分でも思いがけないことだった。あれからもうかなりの年月が経ったのだから、もう大丈夫だろうと思っていたのだが、当時は出なかった涙が今になってようやく出て来たのかもしれない。その渦中にある時は無我夢中で起こったことに対処し、生き延びていくことや生活を建て直すことに必死で、涙を流す余裕も無かった気がする。
あの時一番感じたことは「いのちさえあれば。。」ということだった。そして、「せっかく助かったいのちなのだから、これからは好きなことをして生きよう!」と強く決意したのだった。
そしてその後の私の人生は、この願い通りにそれまでとは全く違うものに変わっていった。
この続きはまた明日。
せめて一周忌までには全員の安否が判明されますようにと心から願っている。
たまたま昨日は私の友人のつれあいの一周忌でもあり、神戸に出かけた。友人宅は神戸の高台にあり、帰路のバスの窓から夕暮れの海を眺めながら、阪神淡路大震災のことを思い出していた。
その頃私は淡路島の見える対岸の海辺の街に暮らしていた。職場は東灘区にあり、1995年(平成7年)1月17日は通常なら休みの日であったが、その日は「棚卸し」のため全員が臨時出勤の予定になっていた。
もしも地震の起きた時刻が2時間後だったら、私は確実に命を落としていたと思う。あるいは間違いなく大怪我をしていただろう。
東灘区は一番死者が多く出たところでもあった。職場では同僚7名が亡くなった。途中の駅は倒壊し電車は全て不通になった。
職場のあったビルが炎に包まれ、その上をヘリコプターが舞っていた情景が何度も繰り返しテレビに映し出されていたのを思い出す。もちろんこの映像はビデオ放映で後日見たのだが、今ではまるで自分がその場に居たかのように記憶に焼き付いてしまっている。(ここまで書いてなぜか急に涙があふれてきて、書き続けるのが苦しくなる)
どれだけたくさんの人がこの大震災で家族や友人を失い、家を失い、また仕事を失ったことだろう。。
毎年のように、年の暮れからこの時期の前後は気持ちが塞ぐことが多いのは、精神的な後遺症でもあるのだろうか。
この阪神淡路大震災から7年が過ぎる頃までは、毎朝のように地震の起きた時刻には目が覚めてしまって眠れなかったが、私の体もそれを忘れることが出来なかったのだと思う。
今日、この話を書くことを(オーリングテストで)決めて書き始めたのだが、今でもこんなに涙が出るとは、自分でも思いがけないことだった。あれからもうかなりの年月が経ったのだから、もう大丈夫だろうと思っていたのだが、当時は出なかった涙が今になってようやく出て来たのかもしれない。その渦中にある時は無我夢中で起こったことに対処し、生き延びていくことや生活を建て直すことに必死で、涙を流す余裕も無かった気がする。
あの時一番感じたことは「いのちさえあれば。。」ということだった。そして、「せっかく助かったいのちなのだから、これからは好きなことをして生きよう!」と強く決意したのだった。
そしてその後の私の人生は、この願い通りにそれまでとは全く違うものに変わっていった。
この続きはまた明日。