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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(7)

2012-01-23 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
今日は「テレパスアート」についての話です。

阪神淡路大震災がきっかけで「自動書記」が始まり、1995年の夏から広島に一年暮らしたのですが、その折にメキシコ(ユカタン半島)へのツアーに参加しました。
それは普通の観光ツアーでは無く、ある霊能力者(外国人)の女性を中心にしたスピリチュアルなツアーだったのです。
どうやってそのツアーを知ったのか、なぜ参加することになったのか?
本当に不思議なエピソードがたくさんあるのですが、その詳細はまたの機会に書きます。

さて、その旅の途上に、思い付くままに(メモ代わりの)スケッチを毎日書いていました。何気無く描いていたのですが、驚いたことにその絵が私の知らない人の情報を伝えていることがわかったのです!

ある時その絵の中の人物がどう見てもツアー仲間のある人に似ている気がして、その人にその絵を見せたのです。
すると、その女性がその絵の中の犬(自動的に描かれていた)を指差して「これはうちのOOだわ!」
「うちに置いて来たからずっとこの子のことが気になって、いつも思い出していたのよ」とびっくりされたのです。
面白いことにその犬が何を考えているか?マンガのような吹き出しの中に「犬語」?も描かれていました。

その後帰国してからその人から今度は妹さんの絵を頼まれたのです。
妹さんの住所などは伺わず、お名前だけを聞いたと思いますが、その絵ではなぜかよく似た二人の登場人物(女性)を描き、意味はわからないままにその人に見せたのです。
すると、実は妹は「双子」で、だから絵を頼んだ妹以外にもう一人妹がいるのだと打ち明けられたのです。
一切何も知らずに描いた私の方がまさにびっくり の体験でした。

そんなこともあって、その後も頼まれるといろいろな人にファックスで気軽に絵を送ってあげたりしていました。
もちろんお金はもらわず、その頃は遊び半分で無料で描いていました。
ボールペンだけで描いた、彩色無しのまるで「落書き」のような線描画です。
(最初は「ヒーリングアート」と呼んでいました)
絵が届いた後で私に電話をかけて来て下さった人には、簡単な説明もしました。

そのうちに、その絵を喜んで下さる人がどんどん増えて、あちこちから頼まれるようになり、(ほとんどが友人や知人関係からの紹介でしたが)ある日あるきっかけから、突然にそれが私の「仕事」になったのです!

このいきさつについては以前HPに書きましたので省略しますが、その仕事が始まった日が1997年の5月3日でした。
それはあの阪神淡路大震災の直前に私に降りて来た「宇宙からのメッセージ」!?に予言されていた、
まさにその日だったのです!(正確に言うと日付は同じでもなぜか一年遅れでしたが)
その後は仕事として絵の代金もいただくようになり、いつからかは忘れましたが水彩絵の具による彩色もするようになりました。

そういうわけで、それから途中何度か休むことはあっても今日までその絵の仕事が続いています。
(2004年の秋からは「テレパスアート」という名称に変更しアクリル絵の具による彩色になりました)
突然の「自動書記」から始まった「宇宙画」(線描画)が、このようにして自然に「テレパスアート」に比重が移行していったのです。

今年はその「テレパスアート」がめでたくも15周年を迎えます
これまで応援し続けて下さった方々に心から感謝です。

さて、明日はどんなお話になるでしょうか。お楽しみに



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阪神淡路大震災で授かった能力(6)

2012-01-22 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
さて、そのようにして突如授かった「自動書記」で描かれたたくさんの線描画の中から
「ホワイトホール」と題された富士山の絵をご紹介します。(彩色は相棒です)




絵が小さくてわかりにくいかもしれませんが、
富士山の上には地震計?のようなものがなぜかぶら下がっています。
その左右には小さな渦巻きが描かれています。

今日急にこの富士山の絵をご紹介したのには実は訳があります。

京都駅の(伊勢丹7階にある)美術館「えき」KYOTOにて
生誕250年記念展「北斎の富士」が現在開催中なのです。
本日は最終日で、午後5時(入館は4時半)までで終了です。

葛飾北斎の描いたたくさんの富士山。どうぞお見逃し無く!

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オーリングテストの話(5)

2012-01-19 | シリーズ「オーリングテストの話」
今日は「家と自尊心」の話の続きを書く予定でしたが、なぜかオーリングテストの続きを書くことになりました。

毎日その日何を書くかについては、オーリングテストによって決めていますが、どうしてこんなふうに日によって違ったテーマになるのか?
オーリングテストというのは、一体どういう基準でものごとを選択したり、決定したりするのか?と言えば、たぶんそれは「総合的に見て」ということではないかと思います。

例えば自分の現在だけにとってよいことではなく、それが未来に及ぼす影響や、あるいは周囲の人や環境その他諸々、
全体的なことを全て判断した上でのことではないかなと思うのです。
そしてオーリングテストの奥深いところは、どんなよいことに見えることでも、それがその人をかえってダメにする場合はそういうことにならない(オッケーが出ない)ということではないかと思います。

だからオーリングテストで「宝くじ」を買うとか、あるいは「試験に通るかどうか?」などを判断しても、それがほんとうにその人にとって役に立ちみんなにとってもよいことであり、また将来的にも意味のあることであるならいいのですが、そうでない場合はわざと?違った結果を示すことによって、「番狂わせ」をすることによって「調整する」ということもある気がします。

すなわち、ある学校に通りますか?と聞いて、「通る」と言う答えを得た場合でも、「落ちる」こともあるし、実際に通ることもあると思います。それはその答えを「受け取る側の問題」でもあるかもしれません。

「通る」と聞いて安心して勉強しなくなってしまって落ちたり、あるいは逆にそれで難関を突破する元気や勇気をもらい、より一層頑張るということになれば、実際に通ることでしょう。。
ですから「通る」という答えが重要なのでは無く、それを聞く側の心構えとか、聞いた後の行動の仕方や「意識の持ち方」も、実際の結果に影響してくるのではないでしょうか?

それなら、オーリングテストなど必要ではないのでは?と思われるかもしれませんが、そうではありません。

ある時、我が家に初めて遊びに来る知人(男性)に何をごちそうするかについて事前にいろいろ考えて、もちろんオーリングテストもしていましたが、実際にはその人が私たちの予測していない日に突然にやって来たために、ひどい結果! になってしまいました。
でもそのひどい体験のおかげで、その後その人は私たちにあまり何も「期待」しなくなり、それが逆によかったのです。
そして今ではその時のことが「笑いぐさ」になるぐらい楽しい思い出になり、その時のことを思い出すだけでも笑えて来ます。

その人は私たちがその日だけでなく、毎日食べるものまでオーリングテストをしているのを見て、腹を抱えて大笑い。
あきれかえって「自分で食べたいものぐらい自分で決めろよ!」と言っていましたが、それも一理あります。
一時は私たちも「オーリングテストフェチ」になってしまっていたぐらいでしたから。

それから「オーリングテストのコツ」というものもあります。
「問いかけ」というか、答えよりもむしろ「質問の仕方」が大事なのです。

「OOはダメですか?」という否定的な聞き方ではなく「OOは大丈夫ですか?」と肯定的な聞き方の方がいいと思います。
ダメな場合でも「なぜダメなのか?」を聞いていくよりも、「何のために?」と聞く方がいい気がします。
なぜそういうことが起きたのか(その原因)を探るよりも、「何のためにそれが起きたのか?」ということを知れば、今後
どうすればいいのかということが見えて来るのではないでしょうか?

おそらく今日このブログが突然にこういう話を書くことになったのは、それこそ何のためなのか?それはきっとそれを知りたいひとがいて、この話を今必要としているからではないかと思います。
ちょうどこの時期は入試の真っ最中の人も多いことでしょうし、その家族の方でこのブログを愛読しておられる方もいるのかもしれませんね。

私は全く何をどう書くかについてもまるで「自動書記」のように?このブログも「おまかせ」で自然に書いています。
そういうわけで、読み直して校正するのは後で時間のある時にやっています。
今日はこれから出かけるために、見直す時間がありませんが、また後から読むと違っているところもあるかもしれません。
もし間違っているところがあればご海容ください。

とりあえず、今日はこれで。(オーリングテストでもオッケーが出ました) 
ご愛読に感謝です。










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いのち光る 2012.1.17

2012-01-17 | 音楽の話題
「いのち光る」というこの歌は、17年前の阪神淡路大震災がきっかけとなって出来たものですが、これまでどこにも発表したことがありません。(身近かな友人に頼み込んで自分のためにだけ歌ってもらったり、「広島平和音楽祭」に応募したことはありますがもちろん落ちましたので、この歌が人前に出るのは今回が初めてです)

17年前の今日、
阪神淡路大震災を経験した一人として(東日本大震災の被災地を思いつつ)
平和への祈りと共に 生かされていることへの感謝をこめて 
拙いながらもこの歌を捧げます。

いつかこの曲(旋律)も一緒に聴いてもらえる機会があると嬉しいです。

……………………………………………………………………………………………

< いのち光る >  2012.1.17  ティアナ作

はるか遠く去ったひとは 雲の姿かりてささやく
この世のすべて夢のよう
永遠(とわ)に還ろう 共に還ろう

はるか遠く去ったひとは 風の姿かりてささやく
この世のすべてなつかしい
永遠(とわ)に語ろう 共に語ろう

はるか遠く去ったひとは 花の姿かりてささやく
この世のすべて美しい
永遠(とわ)に遊ぼう 共に遊ぼう

はるか遠く去ったひとは 虹の姿かりてささやく
この世のすべて光るいのち
永遠(とわ)に祈ろう 共に祈ろう

永遠(とわ)に祈ろう 共に祈ろう





下記の歌も阪神淡路大震災がきっかけとなって出来たものです。
これは「相棒」が先に曲(旋律)を作り、それに私がかなり後になってから歌詞を付けたものですが、17年前に私自身が直接経験したこと、感じたことが言葉となって自然に流れ出て来ました。
この歌も公表するのは今回が初めてです。

…………………………………………………………………………………………………………………

< アウロラ >  2012.1.17  ティアナ作

白い羽根 舞い降りて 雪に変わるよ
暗闇に 凍てついた 大地の上に
音も無く 降り積もる 白い花びら

 人は人の名を呼びながら
 目覚める時を 待ち続けるよ
 さえずる小鳥 明けてゆく空

きらきらと 降り注ぐ 光の雫
溶けてゆくよ 青い空


過ぎてゆく 歳月(としつき)の流れの中に
変わりゆくふるさとを 後(あと)に残して
羽ばたいて 消えてゆく 白い鳥たち

 白い白い光の中へ
 一枚の羽 空から落ちて
 水の流れに ふわりと浮かぶ

きらきらと 降り注ぐ 光の雫
溶けてゆくよ 青い空

還りゆくよ 遠い宙(そら)

………………………………………………………………………………………………

※ 以上の歌の転載とコピーはご遠慮ください。
 またいつか聴いていただく機会があれば幸いです。



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阪神淡路大震災で授かった能力(5)

2012-01-16 | シリーズ「アズミックアート物語」1~20
さて、その突然に授かった能力で制作した菱形の3個の笛の出番は、私が阪神淡路大震災後に住むことになった広島で、ある日突然にやってきました。

松尾みどりさんという「宇宙船に乗ったことのある人!?」の講演会があり、その頃私は彼女のことは全く知らなかったのですが、ふと出かけてみたのです。そこでその会を主催していた人たちと知り合い、後日その仲間の一人が私を「弥山登山」に誘ってくれたのです。

記憶は定かではないのですが、1996年3月の初め頃だったかと思います。その昔修験者が通ったというまだ雪の残る山道を何人かの女性たちと一緒に歩いて登りました。
前年(1995年)の夏に広島に移った私は、弥山に登るのはもちろん初めてでした。顔見知りは私を誘ってくれた人だけで、他はみな初めて会う人ばかりでした。

なぜか頂上に着いても一行は休むことなくさらに別の道へと進み、やがて奥の院?のような小さな神社に辿り着いたのです。
そしてみんなでお参りしたのですが、私はその時3個の笛を携えて行っていましたので、2個を左右にいた人にふと手渡しました。
するとそのうちの一人(私を誘ってくれた人)がまるで雅楽の調べのように、いかにも朗々と笛を吹き出したのです!

しかもそれがほんとうに感動するぐらいうまかったのです  そこにいた誰もがその音色を自然に受け容れ聞き惚れていました。よほど笛を普段から練習しているか、巫女さんの経験のある人かもしれないと、その笛の「奉納演奏」が終わってから彼女に尋ねてみると、何とその時「生まれて初めて吹いた」というのです。
この時撮った写真には虹色の光線やとてもきれいな光の玉がいっぱい写っていました。

このことがきっかけで私は彼女と親しくなり、初夏にはメキシコ(ユカタン半島)への旅を一緒にすることになったのでした。
この旅で私は、その後一緒に暮らし&たくさんの「線描画」を彩色してくれることになる彼と出逢ったのです

そのツアーで私と彼とを結び付けてくれたのもこの彼女だったのですから、ほんとに「縁」というのはどこに転がっているかわかりませんね
またそのツアーでもこの笛を吹く機会が巡ってきたのですが、その話はまたいつか
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ところで「自動書記」による線描画や「笛の制作」だけではなく、他にもこの阪神淡路大震災後に花開いた思いがけない能力がありました。その一つは料理です。それまで作ったことの無いものを「勝手に手が動いて」どんどん作っていくのです。

それはメニューを最初に思い付くというのではなく、誰かに動かされている感じで、自分では何が出来上がるのか全くわからないのに、次次に材料を入れたり、火にかけたり、あるいは途中で調味料を足したりするのです。
しかもそんな材料が冷蔵庫や食品棚に残っていたとは!?と私も知らない(忘れている)ようなものさえ、勝手に使って作っていくので、何とも便利で楽チンでした。
またそれまで一度も作ったことのないものもこの時はなぜか自動的に作ったのです。
例えばインド料理に出て来るような「ナン」とか、トマトを入れたスープなど。

特に珍しくないわ、「そんなのフツーのことよ!」と料理の得意な人は思われるかもしれませんが、私は実は子供の頃から料理や食べ物に関する「トラウマ」があり、料理は大の苦手だったのです。
それでトマトというのは、生でそのまま食べるか、サラダに使うかぐらいしか知らなかったので、いきなりお湯を沸かし出してその中に切った生のトマトをほり込んだ時には、一体これは何? 「私は何を作るつもりなの?」とびっくりしたのでした。
それからたまたま手元にあったもやしを入れて、塩胡椒とコンソメで味付けしただけのスープが出来上がった時には、それはそれは何とも美味しかったのです。
ナンだって「何とも言えないぐらい」上手に出来たのでした。

このありがたい料理の能力はそれほど長くは続かず、いつのまにか消えてしまっていましたが、「東日本大震災」の起きる前年、
(2010年の初夏に)今住んでいるところに転居して来てから、なぜかまた急に再燃しました。
それで「やったぁ~!」と喜んでいたのですが、最近になってだんだんその情熱というか、エネルギーも下火になってきたようです。

話が長くなりましたが、最後にもう一つ。音楽の才能!?も突然に出て来たのです
大地震で揺れて右脳が急に活性化したのでしょうか。
頭の中に音が鳴り響いて、メロディーと同時に歌詞も自然に浮かんで来るのです。
それでその時に出来たのが「ヒロシマーいのち光る」という曲です。

これは広島に移ることがまだ何も決まっていない時、まだまだ一日に何十回もの余震の続く中で出来上がったものですが、たまたま「広島平和音楽祭」で一般募集があり、楽譜の書ける人に手伝ってもらって採譜してもらい、その応募曲として後日まとめたものです。もちろん入選なんてとんでもない、ただ頭の中でずっと聞こえ続けているものですから、そういうかたちにして一度外に出す必要があったのです。

それに阪神淡路大震災によるあの惨状は、原爆を知らない戦後生まれの私にもまさに「ヒロシマ」を連想させるものでした。
だから何としても「平和」への思いを歌いたかったし、それが亡くなられた方たちや私自身への精一杯の「鎮魂曲」でもあった気がします。

明日の「震災忌」にはその歌を紹介する予定です。 ご愛読に感謝です。



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