福岡ソフトバンクホークスを科学する。

1989年平和台時代から鷹キチの情報発信。
ダイエー→ソフトバンクに変わりました。
厳しい応援の目は変わりません。

平和台時代の苦悩89年から92年

2005年01月11日 | スポーツ
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1989年59勝64敗(7引き分け) 125,1万人 杉浦 4位

1990年41勝85敗(4引き分け) 134,6万人 田淵 6位

1991年53勝73敗(4引き分け) 157,3万人 田淵 5位

1992年57勝72敗(1引き分け) 167,7万人 田淵 4位

これが平和台時代の成績であった。観衆は増加。しかし、成績はご覧のとうり。球場に、行けども行けども苦悩の結果。
残念だが、展望のない、特に田淵監督時代、つぎはぎ野球、選手が可哀想であった。明日を目指した、選手育成もなかった。

個々の選手については、論及しないが、監督の采配等は、ファンが見ても悔しかった。成績を見れば瞭然である。
杉浦監督は、フロントに残り、中内オーナーの夢である、ドーム完成時もGMと思っていたが、大きな勘違いで、去った。

1998年までの苦悩は、ここ平和台で、弱体球団の烙印を押されて、鷹の底位置?を決めた。
4年間Bクラス。王監督いわく、負けぐせで、勝意欲を失った球団になった。田淵監督は、敗戦球団のA級戦犯であろう。
強くここに、言って残したい、このころの責任を。

当時の球団には、指定席担当はわずか2名。(IW氏とIS氏)であった.しかし7000席程度は年指定で完売。
とくに子供ファンに対して、うちわ、キャップ、旗などをプレゼント。試合終了後は抽選会。センターには、大型ヴィジョン。
楽しい球場であった。トイレ以外は?とにかく臭った。


このころは、プロ野球が始まって、40周年のころで、試合日程表にも、その記念ロゴが見える。また天神の店では、機構主催の、野球展示会が開催された。写真リストをご覧ください。
知られていないが、このころ、国の白書にも、この鷹球団の観客が、九州全域等から、どう集まっているのか、分析したデータが発表された。野球が白書に掲載されるなんて????
観客が増加しているこのデータは、自慢していたい。西鉄いらい、野球を忘れていた、九州のファンの熱意が、爆発したのだ。

次回掲載時は、平和台時代の思い出の試合などを、思い出してみたい。
この30日は、ソフトバンクホークスの披露式が開催される。16年前を思い出して。
まさに、歴史はくりかえされるのだ。この披露式を、詳しく中継してみたい。斯う。ご期待?