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さて平和台時代は、先述したように、杉浦、田淵監督時代はBクラス指定席。
居ても立っても、居られなかった。後半やっと、門田選手を無理やり招聘して、なんとか4位にとどまったが、いかんせん長期の戦略がなかった。つぎはぎ野球としか言えなかった。1993年いよいよ、ドームへ移転。当時、坂井球団代表の言に寄れば、本社に尋ねたら、オーナーから皮肉を言われて困ったと記述している。金の無心ばかりだったようだ。
球場名は、福岡ドームではなく、本当は“福岡コロシアム”に名前が、なる予定で事は、進んでいたことは、あまり知られて居ない。ここ平和台には古代の迎賓館が埋蔵されて居るため、移転を余儀無くされた。
隣のホテルも、ハカタベイ、オリエンタルホテル&リゾートが直前迄、決まっていた。正氏が、けんかしてでも、改名して、父親を説得して、今日の名がついた。
足回りは地下鉄利用で平和台はよく、百道の博覧会跡地には、アクセスがなく、今考えても、地下鉄など延伸策を考慮すべきであった。
ドームが、ここ福岡になければ、と思うとぞーとする。
この意味に於て、中内氏が言った“アジア諸国との交流なら福岡は日本のどの都市にも負けない。福岡には暖かい人間的な触れ合いがある”原文そのまま。
ここに“共生”という言葉が生きてくる。アジア諸国との、新時代を創り上げる舞台ですと言い放った。
だから、ホテル玄関横には、(共生)という文字が或る。(写真1月28日日記参照)1989年アジア太平洋博覧会が開催された所以である。すばらしい言葉である。野球に置き換えれば、ファンとの共生に置き換える事ができる。
ドーム最上部まで84m、直径213m、屋根は、上(4200トン)、中(4000トン)、下(3800トン)の三層に分かれて、上と中の翼2枚が最大120度旋回する。24台の駆動台車が45度の傾きで、毎秒22,5センチの早さ?で移動する。
所要時間20分。費用は約70万円。座席が動いて、多目的に利用できることは、あまり知られていない。
福岡いや日本の名所になって、我々の鼻が高いのは、こういう施設ができたおかげだ。
清貧な家から、優秀な人が育つ、と昔から言う。ダイエーとは、大阪の大と、父親の名前、栄を採って、ダイエーとなった。
清貧な薬店から生まれた、中内氏がここまで、上り詰めて、Dマークを広めたが、このマークは、丸が欠けている。
満足しない、不完全という意味であろうが、この30日、福岡ドームのネット裏に掲げられた、Dマークが、妙に寂しそうだった。
福岡ソフトバンクホークスという文字は、中国では”福岡軟體銀行鷹”と記述するようだ。知らない異国から、本日私のプログを見て、1番内容が充実?面白い?まーまー?とかそーいう言葉(漢字)がならんだ、メッセージをいただいた。
メイルという、近代的兵器はすごいんだなー。生きててよかったー?これは、大げさでした。ハイ!
では、次回はキャンプ情報です。厳しく放送しますよ。
写真は左から、共生の銘板、さよなら平和台特別版、ドームオープン記念配付本。