福岡ソフトバンクホークスを科学する。

1989年平和台時代から鷹キチの情報発信。
ダイエー→ソフトバンクに変わりました。
厳しい応援の目は変わりません。

福岡ソフトバンクホークスの基礎(006)

2005年02月09日 | スポーツ
IMG_0003IMG_0012IMG_0156IMG_0085今日のトップニュース。前述したように、また宮崎キャンプで、巨人が、ファンへ限定配付した、カードやプレスキャップが、オークションで販売されている。厳重に巨人は抗議したようだ。
真にファンへ配付されたものを、二重に受領して、金銭化しようとしたものだ。
こういうことは、厳格には、防ぎようがない。手に入れた以上は、自由であり、その後は、その人の考え次第だ。
入退場する、記者かカメラマンが、不正入手して、何度も、同じ物をオークションにだして、金銭化したことが、我が鷹球団にも関連する人が、過去にいた。そう言う人(関係者)は、徹底して、非難されるべきだ。また他人に、委託販売させる技術も持っている。誠に腹立たしい。

さて、我が鷹の平和台時代は、前述した如く、あまり、もーあれ以上、深く放送?したくない。

あの自然いっぱいの平和台から、近代的球場へ移転する。話題、満載で出発し直し。
監督は、杉浦サンの、大勘違い?から、根本監督の手に移り、新生ホークスを、立てなおおすことになった。

根元さんは、現役時代は、選手としては、??
なにがそーさせたかは、わからないが。茨城県の原子力で有名な、東海村の村長サンの息子として生まれ、教育、宗教面で教えを請い、すご腕の指導者になった。
お合いした方は、皆ファンになった。写真を撮影する場合は、昔から知り合いの如く、肩を抱き合って、ポーズをいつも決めてくれた。
所在?今?進出鬼没?の方で、いつも、その行方が話題になった。
彼の名言は数々あるが。
『名監督は、皆君たち選手諸君が作るのであって、私が有名になるのではない』
『王監督は、ラーメンやの息子と思え』 『選手寿命は短い、止めたあとが長い、そー考えて今暮らせ』などなど。

選手には、大変辛辣な意見も多かったが、一つ悔やむ事がる。あの世紀の選手交換である。1994年、ドーム開業の翌年、鷹から、村田、佐々木、橋本選手、獅子から秋山、渡辺智、内山選手の入れ換えであった。
私もかなり動揺して、根本サンを非難してしまった。
御別れ会では、手をあわせてあやまったが、本当は、面とむかって、あやまりたかった。

さて、1993年堂々とオープン。
竹中、前田、イチケンのJV工事。開幕当時、あのドームで雨が漏ったり、して、ハードもソフトも大混乱であった。

福岡ドーム。開幕に先立って、記念試合が、行なわれた。パ交流試合であった。
ドーム人気が重なって、来るは、来るは・・・・・・人人・。
観光バスも多くて、入場券も入手が困難であった。
名称は、当時、福岡コロシアムで決定していたが、直前になって今の、福岡ドームに改称された。
いわゆる不正鉄骨事件や土地売却が安いとか、新聞紙上を賑わせながらの、オープンであった。

ファンも驚いたが、選手が驚いた。こんなひろくて、高い外野壁の野球場で、どー野球を行なうか、監督以下みな、度胆を抜かれて、我を忘れて試合に臨んだ。
阪神からきた、入団したばかりの、池田投手や、陽気なホワイト選手などは舞い上がった。

写真は、ドーム開業記念パリーグ対抗戦大入り袋、福岡ドーム開設時の年間指定席募集パンフ、、いまは閉館されたミュージアムパンフ、開設時配られた記念カードの4点である。

次回からドーム開業、1993年から、順次、試合名場面集など放送?していきます。
そして、今ソフトバンクに変わったが、その基礎、歴史は、忘れてはならない。