このキャップ、ロゴが白と赤。初期のプロモデルである。赤がホーム、白が他球場である。スタジャンも赤と緑であった。
これは、2種とも、とにかく格好良かった。
緑とは、ダイエーがせめてもの、旧南海への配慮であったろう。、もともと野球帽子は大阪に工場が多くて、その中デモ,中央帽子製造が、大半であった。帽子はミズノ製の名であったが。ユニフォームは、メッシュと布帛タイプの2種だが、メッシュが選手に好まれて、大半が布帛ものを着用しなかった。
始球式は、森口博子、ロゴポップの異様な対決。初戦は村田投手が、野茂投手に負けた。平和台最終戦とは逆になった。
両試合とも、相手は野茂投手、皮肉なものだ。
93年、試合は45勝80敗で1位からナント28ゲーム差で、終えた。なにもない。平和台時代を引きずり、グリーンモンスターに相手にされず、完敗。球場に行かず、テレビ、ラジオで応援するファンも急増した。
しかしチケットだけは、良く売れた。最初のドーム人気のおかげであった。
試合の無い日でも、観光スポットで、沢山の観光バスがやってきた。球場の屋根が開くなんて?夢の球場であった。
投げても負ける若田部投手、村田投手も、ばててきて、あーあーの溜息ばかりであった。
あーそろそろ打たれる頃、あーやっぱり。どたどたと帰る。我が妻などは、球場を出るとき、靴を踏まれて、行方不明?
あとすざりして、探すなんてことは出来ない、あきらめて前、前へ。片足裸足で帰った。私の肩を貸しながら。
その試合勝っていたら、靴なんて・・・・。負けたもんだから、機嫌は悪い、食事は作らぬ。
おかげで、外食が儲かったなんて・・・。負けたら食事を作らぬ家庭が増えて、離婚が増加なんて・・・。珍社会現象?
野球が、地元にあるために、生活スタイルまで変わってしまって、行事日程は、野球開催日を、1番に入れる。
負けた翌日は新聞も読まず、山ずみ。放送だけの場合は、アナウンサーやペットまであたったりして、家中がちゃがちゃ。
采配の他に、はたまた、ユニフォームが悪い、キャップが悪い。なんでも、やつあたり。
我が家のペット(ドーム君、ロンちゃん)も、ありがた迷惑。試合展開を予測して、早めに非難してキョロキョロ。。
このように、ドームオープンは、野球をもっと身じかにさせた、効果があった。野球なんて見たことないのに、おかげで長生きできた、とか、外で、ピクニック気分で弁当食べて、そして入場、というシーンも拝見した。
このキャップ、後日ひさしだけ、赤?に変わる。色変わってチームが変わった。1999年のことである。1993年から、バッターボックスに入るときのヘルメットだけは、従来どうり、ひさしは赤であったが。
この色の変化の中にも、色々時代背景があったのです。
色で変わった例でサイたるものは、広島である、当時外国人の監督が、今の赤に変えて、急に強くなった。
弱くなったら、色を変えて見たら。
開業当時、きらきらしていたドームの屋根。マルコポーロがみたら、黄金の国と呼ばず、プラチナの国と呼んだであろう。
それほどキラキラしていたが・・・・。いまや、真茶色にチタンがさびて?いる。16年も経過したら、あちこち痛んできた。
世界に先駆けて、屋根開放の施設ができた。しかし、世界のファンへ開放する施設には、ほどとおい。
まだまだ、宣伝が行き届いていないからだ。私を含めて、東洋人の悪いところだ。
アジア以外への発信はへたくそだ。
世界に発信して、青い目や赤い目?のかたが、沢山やって来て欲しい。そのためには、現スタッフの目を茶色から、野球のつば(赤)のように、色を変えて、営業してくれねば。そのためにも孫サン、アメリカに?
ところで、毎年このころ、キャンプ地から、心強いニュースが、どんどん飛び込んで来る。
毎年だから、記者諸君の売らんかな情報と思うが。その情報どうりとすれば、なんと、12球団、皆1位になる。
記者諸君がネタ切れになるころかな。