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ご覧ください。このふたり。知る人ぞ知る。知らない人は知らない。あの、モモすぽ新聞の石橋編集長と南女史。
監督や選手から、また中内オーナーから、面白くない、いや事実とちがうとか、そばからいいたか放題であった貴重な新聞である。
この新聞の製作、取材にあたった、優秀な二人。ダイエー鷹の歴史には、欠かせないスタッフである。今でもドームで活躍中で、その活躍を、良く拝見する。ファンサイドで、製作にあったった、約3年間、毎週発行が原則であった。A3で4枚分。
しかも表紙はカラー。(モモすぽ)は既に、廃刊になったが、寂しいが、いつも試合終了後、イスの下や、風にながされてあそここに、ゴミとして散らばっていた。悔しい思い出、ひらって帰った。
純粋に取材して、選手から怒られて、いまや博物館では、貴重なものである。
ウイークリーホークス(WH)、このモモすぽ、さらに、ホークスタウン紙、計3紙が継続的に発行されていた。
ももスポのみが、ここドームからの取材、発行であった。大判のWHは、ダイエー本社からの発行であった。
ファンクラブ紙と異なり、選手に最も接近していた、新聞であったが、都合により廃刊になった。(96年~98年)
今は、月刊ホークス、が引き継いだような形であるが、これは、専従班がいるだけに、年々内容が濃くなってきた。
取材班も熱心だから、いや野球、鷹がすきだかららであろう。
各球団とも、こういうファン対策の媒体をもっている。当時、鷹が、1番充実しているようにみえた。
各ゲートごとにある、試合日程表や各PR紙,地方からの宣伝隊など、いつも賑やかである。
各球場に行けば、必ず何周かして、雰囲気や、職員の動きを見て回るのが、大好きである。トイレ、店舗、職員の動きなど。
球場ごとに異なって、面白い。
なんと、対オリックス戦公式試合で、台湾の天母球場では、商品の包装の仕方は、成っていないので、職員に私が、教えてきた。(後日詳細)
こんなところで、国際交流をして、喜ばれた??
ファンサービスの一貫か?オーロラビジョンにあらわれる、画面もたのしいが。でも試合中、選手がでているCMはいやだ。松中父さんが裸で入浴シーン?城島パパが、階段で歌うシーン。ガックリして、試合イメージをコワしてしまう。完敗の試合ならば、いいかも?
場面を考えてCMを流す、配慮もいる。ビジョンを使用するなら、選手の成績とくに、盗塁数は必ず流して欲しい。只今実績は3盗塁、とかながされると、選手も恥ずかしいから、努力しないかなあ?
ついでに、修学旅行生は、見学中と流れる。??小学校とか流れれば、ひょっととして、我が田舎からの?と思ってしまう。だが、出身県などが、無表示だから間違っててたら、恥ずかしいし。ひょっとあの先生や、あそこの子供が?とか思ってしまう。
工夫が足らないのでは。
とにかく、ドームが出来て、試合内容も変わったが、ファンの楽しみ方など構造も変わった。係わるスタッフも、観衆の目で工夫してもらいたいものだ。
今日はコーチについて放送いたします。
試合は、ひろい外野を意識した、守備、攻撃(2,3塁打)の判定の重要性。
特に大きな声でいいたいのは、1塁3塁のコーチの仕事である、判断と声が大事である。
小久保のケガに代表されるように、試合展開、判断、指示が、全然以前とは変わったということである。コーチの優秀さが問われる球場である。我が鷹では、まだコーチ陣には、私は、不足を大いに感じている。
判断が遅い、試合状況に、こころから自分を置いていない。良く見てください彼らを。選手と一緒に、まず身構えていない。ここが問題。
手を裏に組んだりして、私はコーチである、と言う姿である。立ったままでは、迫力を感じない。12球団おなじである。
コーチ教育を受けていない、というより、そういう教育制度もないのである。審判制度同様おくれている。
近代的球場では、特に、ファンの目が肥えて、そういう点まで、観察していることを、忘れないで欲しい。
コーチが、一歩間違えば、選手は、けが、チームは逆転負けです。
王監督1年目、あのコーチ陣が言い争ってけんかが沢山あった。戦術で争うことは結構だが、違うことらしい。2年目コーチ陣は、変わった。なにがあったか。賢明?な彼らは、だんまり。おつきあいがありますからねー。
要は、選手だけでは勝てない、コーチ、スタッフがあってのこと。昨年活躍した選手が、ピッタと次年不調。これにはいろいろ理由があります。あー人間の組織なのですね。野球の世界も。
1993年ドーム球場我が鷹、沈黙や爆発の戦い。負けも負けたり80敗。本塁打も、急激に激減した。139本⇒75本。
ここドームでは、わずか18本塁打のみ。これでは、?????打線とか命名どこでは無かった。
監督以下このマンモス球場に、ホームでありながら、慣れていなくて、グリーンモンスターともいわせた。
人工芝の具合も悪くて、一時期、天然芝開発(福岡ドームオリジナル)と称して、張り替えも研究された時期もあった。
優勝するには、そういう事を乗り越えて、初めて出来ること。根本サンは、この球団の分析をして、選手意識を変えるために、よくぞあの世紀の英断を実行したことになる。その上、心の中には、次期は、王監督の後継が決まっていたに違いない。
根本監督時代は、あまり選手に指示が無かったように見える。これは、キャンプのときからであった。記者などの質問も、この点に集中していた。おまかせ野球?であった。負けたら君達の給与は減るよ、それでいいねー?
1993年、8連敗(1)、5連敗(1)、4連敗(4)、そして引き分けをはさんで8連敗(1)、3連敗(6)これで計55敗。
あの田淵時代の屈辱よりも、ましだが、思いだしたくない時代。
この時期、前述の両君は、日夜、苦戦して、色々な記述をなし、ぐるりから叩かれて、発行してきた。
涙ぐましい歴史があった。球団の裏舞台では、ファンが知らない、奮闘の結果、ここまでの人気球団になった所以が、隠されている。
以上球団を、支えてきたドーム裏舞台、奮闘のスタッフご紹介もしたくなって。
次回は、1993,1994、根本野球を詳しく分析?します。あの名場面も、あんなことも。