福岡ソフトバンクホークスを科学する。

1989年平和台時代から鷹キチの情報発信。
ダイエー→ソフトバンクに変わりました。
厳しい応援の目は変わりません。

福岡ソフトバンクホークスの基礎(005)

2005年02月04日 | スポーツ
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平和台での戦いが、ドームへ移る1992年までの4年間。屈辱の戦いであった。
大変目ずらしい?も放送しておこう。(写真は1軍黒、2軍赤の公式練習球)
まず平和台名称の由来は、球場完成の折、当時、大学の先生が、スポーツは平和の基礎つまり台であるということから、決定した。それでは楽しい思い出??
① 坂井球団代表と中谷編成部長が、そっくりサンでした。お互いに間違われて、困ったようだ。これは、あまり面白くない?
② ファールボールが、球場外に飛ぶので、試合そっちのけで、子供が沢山外で待機?していた。今は北九州球場でも、今も沢山飛んでくる。くわばら、くわばら。車に当たった?
③ 試合終了後、抽選に当たった景品は、ショーも無かった。御菓子は食べれて良いが、時計などが当たったが、壊れていた。最初からぼろだった?
④ トイレの臭う、うどんを食べた?(とにかく臭いトイレだった)
ついでに放送しておきますが、今のド―ムご婦人トイレの長蛇の列。至急改善を。
時折、男性用に、どかどか、入ってきて、思わず隠します?ひろしです。
⑤ 野球が近代的?に成って、野次が減って、すこし懐かしい。
あー上手い!という野次があった。いまなら野次馬でなく、野次鷹であろうが。
などなど。
次に、記憶に残る外人選手。
まずアップショー、バナザード、ブーマ選手の3人である。
アップショーは喜怒哀楽が、あまりでない博識選手であった。スイングが早くて、もうちょっと居れば、日本野球に慣れて大成したと思う。
バナザード選手は、きかん坊の感じ。特有のバネを持っていた。キャラクターは1番。
退団後も、しばしば平和台で見かけた。背広を着て。
ブーマ選手は、阪急から九州に来てくれた、あるホームインの時、門田選手とハイタッチして、彼の肩を脱臼せしめた。パワーはすごい。

それにしても、平和台第1戦はすごかった。鬼畜の形相の山内孝投手が、熱投。
6対4の割り合で西武ファンが多い球場で、よくも投げたり。技術もそうだが、精神も強くなければ、あーは行かないという証拠である。2対1で勝利した。
鷹球団は,当時成績が悪かっただけに、ナント5年連続100失策の成績。
鷹開幕戦1戦の東京、ビッグエッグでの、あのエラー?は思い出したくない。(写真は、開幕戦チケット)

あまり感動した試合はないので、わが記憶の引き出しには,入れておきたくないが、後半の西武戦では、大逆転の試合もあり、明日を予感させた?(なんかいいように解釈?)
中内オーナーいわく“鷹は五木の子守歌”と言わしめた。つまり盆から上位に居ない。
なかなか上手い。しゃれ神戸出身のはずだ。
田淵時代は、なにも無い。何度もいうが,低位置を作った、A級戦犯である。あー悔しい。
彼を応援すべきでなかった。今言うなって!

今だから言う、いや、残しておこう。当時の鷹から、ドームへ移転して弱いころ、巷では、決して我輩ではないが、誰かが別名がつけていたようだ。
福岡バーゲンホークス(必ず点を相手にやりすぎたからか)
福岡ダツゼイーズ(あの脱税事件に関連して)
福岡ダイエー、スパイダース(あのスパイ事件に関連して)
そのほか、弱小球団の時は、あの胸のFDHは、ふがいない、だらしない、はずかしいの頭文字だ、と言う風に揶揄された。くやしーーい!

さらに、応援歌♪弱く~て~無敵の~若鷹軍~団~♪だったらしい。
弱くて敵とすべき相手が無いということか。くっそー!(これは下品な発言でした)
いまに見ておれ、俺だって、という気持ちがだんだん萎えてきたころであった。
1992年10月1日、平和台最終戦、若田部鷹が野茂猛牛を倒した。
打者では佐々木選手のみ目立った記憶のみである。
さよなら平和台、あちこちで記念写真のシャッターが押された。
ちょうど、西鉄、福岡鷹の古い過去の歴史に、ピリオドを打つように。
“カッシャー!”いまなら“チャリーン”
時代が変わった、新しい鷹ページ。そして福岡ドームへ!
今日は、なんか、調子良い内容じゃん?その辺の記者諸君では、こー書けないよね。
中内初代オーナーは、実は、優勝には10年かかると宣言していました。まさに、1999年リーグ優勝、日本一。まさに当たりました。
彼は、時代の寵児であったとともに、予言者であったかも。でもその後の、絵柄は、書けていなかった事になる。
自らの未来をも。今は病気を早く克服して、130(イサオ)才まで名を残して欲しい。