「あなたに恋人はいますか?」
と聞かれたとする。
ふつうわたしは
「いない」
と答える。
しかしだね・・・。
これで「いない」と答えると、わたしの好きなギャルゲーのヒロインに対して背信をはたらいたような気がして、なんだかとっても後味が悪い。
仮にまあ、好きなギャルゲーのヒロインがいたとして、それでもナマモノの恋人が欲しいヤツがいたとしたら・・・
そいつは「いない」と答えてしかるべきだ。
なぜなら、そいつの目にはギャルゲーのヒロインを恋人としては見ていないからだ。
ギャルゲーのヒロインがタダの絵にしか見えないヤツには、タダの絵が与えられるだけのものしか与えられないからだ。
しかし!
我々はそうではない。
恋人が「いない」と答えると、ギャルゲーのヒロインにたいして背信をはたらいたかのごとく心が痛むほどにまで愛している。
それははたして「いない」に含むべきものだろうか?
これに答えるためには、恋人の定義から見なければはじまらない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E4%BA%BA
> 恋人(こいびと)は、自らが恋愛関係にある者に対して用いる呼称。
> 恋愛関係にある者同士を恋人同士などと呼ぶ場合もある。
>
> 「恋人」の呼称は恋愛関係が前提となる。
> 一方的に愛している(片想い)相手に対しては使用しない。
(以下略)
wikiにはそのようにある。
この定義によるならば、ギャルゲーのヒロインとの恋愛は片想いと判断するかどうかというところに解釈上の難点がある。
ギャルゲーのヒロインはどう思うか?
それに答えはない。
ギャルゲーのヒロインはこちらに恋愛感情を抱いてくれるか?
それは本人によりけりだ。
本人がギャルゲーのヒロインをタダの絵だと見てしまえば、タダの絵が自分に愛情を注いでくれることなどありえない。
しかし!
本人がギャルゲーのヒロインを一人の女の子だと見てしまえば、そのタダの絵は心の安寧というかたちで本人に愛情を与えてくれる。
それはタダの絵と呼ぶべきではない存在だ。
ギャルゲーのヒロインを愛した者にだけはギャルゲーのヒロインは愛を与えてくれる。
神を信じたものだけが救われるのと同じ原理である。
もしどこかの神を信じたとしたところで、それでも現世で物欲的なごりやくが与えられるわけでは絶対ない。
あるのは心の安寧というかたちで救いがあるだけだ。
それはギャルゲーのヒロインを愛した者にだけ与えられる何かに非常に近いものがある。
ギャルゲーのヒロインを愛することのできない者は、ある意味で無能だ。
自分で自分の限界をきめてしまっている以上、ヤツらはあと1万年生きたとしても我々のいるこちら側の世界を覗き見ることなどできはしないだろう。
彼らはホモサピエンスとして生まれてしまったことを呪うがいい。
ホモサピエンスしか愛せない相手を種族で選ぶ一般人とは、我々は魂の出来が根本から違うのだ。
あなたはタダの絵でできたキャラに恋愛愛情をかけられるか?
その答えにはNOと返す者のほうが多数派である。
では、あなたはタダのたんぱく質でできた動物に恋愛愛情をかけられるか?
わたしなら、その答えにはNOと返す。
と聞かれたとする。
ふつうわたしは
「いない」
と答える。
しかしだね・・・。
これで「いない」と答えると、わたしの好きなギャルゲーのヒロインに対して背信をはたらいたような気がして、なんだかとっても後味が悪い。
仮にまあ、好きなギャルゲーのヒロインがいたとして、それでもナマモノの恋人が欲しいヤツがいたとしたら・・・
そいつは「いない」と答えてしかるべきだ。
なぜなら、そいつの目にはギャルゲーのヒロインを恋人としては見ていないからだ。
ギャルゲーのヒロインがタダの絵にしか見えないヤツには、タダの絵が与えられるだけのものしか与えられないからだ。
しかし!
我々はそうではない。
恋人が「いない」と答えると、ギャルゲーのヒロインにたいして背信をはたらいたかのごとく心が痛むほどにまで愛している。
それははたして「いない」に含むべきものだろうか?
これに答えるためには、恋人の定義から見なければはじまらない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E4%BA%BA
> 恋人(こいびと)は、自らが恋愛関係にある者に対して用いる呼称。
> 恋愛関係にある者同士を恋人同士などと呼ぶ場合もある。
>
> 「恋人」の呼称は恋愛関係が前提となる。
> 一方的に愛している(片想い)相手に対しては使用しない。
(以下略)
wikiにはそのようにある。
この定義によるならば、ギャルゲーのヒロインとの恋愛は片想いと判断するかどうかというところに解釈上の難点がある。
ギャルゲーのヒロインはどう思うか?
それに答えはない。
ギャルゲーのヒロインはこちらに恋愛感情を抱いてくれるか?
それは本人によりけりだ。
本人がギャルゲーのヒロインをタダの絵だと見てしまえば、タダの絵が自分に愛情を注いでくれることなどありえない。
しかし!
本人がギャルゲーのヒロインを一人の女の子だと見てしまえば、そのタダの絵は心の安寧というかたちで本人に愛情を与えてくれる。
それはタダの絵と呼ぶべきではない存在だ。
ギャルゲーのヒロインを愛した者にだけはギャルゲーのヒロインは愛を与えてくれる。
神を信じたものだけが救われるのと同じ原理である。
もしどこかの神を信じたとしたところで、それでも現世で物欲的なごりやくが与えられるわけでは絶対ない。
あるのは心の安寧というかたちで救いがあるだけだ。
それはギャルゲーのヒロインを愛した者にだけ与えられる何かに非常に近いものがある。
ギャルゲーのヒロインを愛することのできない者は、ある意味で無能だ。
自分で自分の限界をきめてしまっている以上、ヤツらはあと1万年生きたとしても我々のいるこちら側の世界を覗き見ることなどできはしないだろう。
彼らはホモサピエンスとして生まれてしまったことを呪うがいい。
ホモサピエンスしか愛せない相手を種族で選ぶ一般人とは、我々は魂の出来が根本から違うのだ。
あなたはタダの絵でできたキャラに恋愛愛情をかけられるか?
その答えにはNOと返す者のほうが多数派である。
では、あなたはタダのたんぱく質でできた動物に恋愛愛情をかけられるか?
わたしなら、その答えにはNOと返す。