横浜に行ってきた。
たいした目的ではないのだが、たまには自分のマンション見てくるか、というものだ。
区分所有者ではあるものの占有者ではない(占有権を貸し与えた対価として銭を受け取っている)ため中には入れんので、ホントにただ見てくるだけ。
これは本題ではないからこれでおしまい。
そのついでに横浜中華街にいってメシを食ってきた。
いつものように胡麻団子を買って路上で食べ歩いてきた。
さらに。
そのついでに線路の反対側にある寿町に見物にいってきた。
さて、その寿町とやらをご存じだろうか?
かつてはドヤ街といって日雇い労働者の集まる豊かではないものの活気のある街だったらしい。
あしたのジョーで出てくるあの下町もドヤ街だ。
しかし今は違う。
完全に生活保護で暮らす人たちの集まる場所と化した。
聞こえをよくするならば福祉の街、聞こえを悪くするなら生ポ利権の街、といったところか。
…とまあ、こんなのが予備知識、かつかつて車で通りがかってチラ見した印象である。
実際に自分の足で踏み込んだのはこれが初めてだ。
で、どうだったかというと…?
どうせ想像以上だったってblogに書き込むことになるだろうと思っていた想定よりさらに上回ったものがそこにあったのだった。
まず石川町の駅を降りる。
駅前には、どうも歩き方のふつうじゃなく、身なりもどうもふつうじゃない老人が一定数いる。
すぐ後になってわかったのだが、彼らは寿町住人のテンプレスタイルである。
歩き方。
足に障害があってマトモに歩けないのかもしれない。
それとも精神がめいっていてマトモに歩けないのかもしれない。
そこに住むとそういう特有の歩き方に自然に矯正されるのかもしれない。
よくわからないがほとんどの人がふつうじゃない。
わたし自身、べつにわざわざしゅっとして歩いていることをこころがけているなんてことは全くないが、彼らに比べればそれ以外全員がしゅっとして歩いているように見える。
身なり。
うまく説明できないのだが、ホームレスの人またはホームレスに片足をつっこみかけている人特有のあの身なり。
広島でいうと、宮島ボート専用列車に乗っている人の身なり。
ビジュアル系アーティストのファンの集いならみな同じ服装と雰囲気、アキバ系ならみな同じ服装と雰囲気というのがなぜか確立しているが、それと同じくなぜか同じ服装と雰囲気というのが確立しているあの身なり。
わたしなんてファッションに気を配り大枚はたくなど愚の骨頂といってはばからない無頓着な男だが、そんなわたしでさえ自分の身なりはちゃんとして見える。
彼らはいったい何をしているのか?
ただ職安の階段に座っている。
ただ道ばたにいる。
ただ非常にゆっくりと道を歩いている。
それ以上はわからない。
生活保護が入金されればパチンコにいき、
半分以上すってしまえばワンカップを買って職安の階段で飲み、
ワンカップも買えなくなればただただ歩き、
ただひたすらにその日が過ぎるのを待っている、
かのように見える。
わたしはただ公共の道路を歩いただけで、それ以上は踏み込めなかった。
わたしは単なる一般人にしか見えないはずだが、それでも
「あっ、こいつここの住人じゃないヤツだな」
と、すれ違った全員にわかったはずだ。
だからそれ以上は踏み込めない。
彼らを見てどう思ったか?
世の中には自分より下がいるのを見て安堵する下層階級まがいなヤツがいるらしいが、とてもそんなふうには思えない。
今の自分の社会的な立ち位置から踏み外すとこうなるかもしれないという恐怖しかない。
ではどうしてこうなった?
某書(※1)にあった貧困のS字カーブをまたいで向こうにいってしまう何かがあったのだろう。
貧困のS字カーブとは、層の厚い中間層と層の厚い貧困層の間には断絶があり、中間点ではいったんどっちかに転がりはじめてしまうと正帰還がかかったかのように加速度的にもう一方の側に吸い寄せられる現象のことだ。
たとえば、パチンコでせっかく支給された生活保護の大半をすってしまうのは良くないことだとわかってはいても、娯楽が全くないことにはパチンコでもしないと気がまぎれないかもしれない。
遥か昔の景気の良いころにこのドヤ街に住み着いてしまうと、たとえ日雇いの求人が蒸発したとしてもそこから出るのには精神的にも金銭的にも敷居が高すぎて身動きが取れないのかもしれない。
不幸にも日雇い労働で体を壊して本当にあの歩き方しかできない体になってしまったのかもしれない。
そのどれが本当なのかはわからない。
だが、そのどれもが貧困のS字カーブをまたいで貧困層から中間層へジャンプアップする機会を全力で阻害する。
その晩は東京で彼らの1月分の家賃になろうかというホテルの部屋をとって泊まって帰った。
ベッドは広いし風呂も異常に広い。
たったの1部屋たったの1人で彼らが10人が過ごすほど使っているかもしれない。
ときどき使っているホテルだが、先の体験を思い返して恐ろしくなるほど快適だった。
わたしも不動産をはじめレバレッジをかけた取引に手を染め、そこで自分の引き受けられるリスクはどこまでなのかという問題に来る日も考えられさせられた。
いつも何気なく物欲のかぎり浪費している銭だが、自分に支払い能力があるというのはこんなにも幸せなのかということに驚かされるくらいである。
人はお金があっても幸せにはなれないというセリフを好む。
だが、お金がなければ幸せは遠のく。
【※1】
貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784622076513
たいした目的ではないのだが、たまには自分のマンション見てくるか、というものだ。
区分所有者ではあるものの占有者ではない(占有権を貸し与えた対価として銭を受け取っている)ため中には入れんので、ホントにただ見てくるだけ。
これは本題ではないからこれでおしまい。
そのついでに横浜中華街にいってメシを食ってきた。
いつものように胡麻団子を買って路上で食べ歩いてきた。
さらに。
そのついでに線路の反対側にある寿町に見物にいってきた。
さて、その寿町とやらをご存じだろうか?
かつてはドヤ街といって日雇い労働者の集まる豊かではないものの活気のある街だったらしい。
あしたのジョーで出てくるあの下町もドヤ街だ。
しかし今は違う。
完全に生活保護で暮らす人たちの集まる場所と化した。
聞こえをよくするならば福祉の街、聞こえを悪くするなら生ポ利権の街、といったところか。
…とまあ、こんなのが予備知識、かつかつて車で通りがかってチラ見した印象である。
実際に自分の足で踏み込んだのはこれが初めてだ。
で、どうだったかというと…?
どうせ想像以上だったってblogに書き込むことになるだろうと思っていた想定よりさらに上回ったものがそこにあったのだった。
まず石川町の駅を降りる。
駅前には、どうも歩き方のふつうじゃなく、身なりもどうもふつうじゃない老人が一定数いる。
すぐ後になってわかったのだが、彼らは寿町住人のテンプレスタイルである。
歩き方。
足に障害があってマトモに歩けないのかもしれない。
それとも精神がめいっていてマトモに歩けないのかもしれない。
そこに住むとそういう特有の歩き方に自然に矯正されるのかもしれない。
よくわからないがほとんどの人がふつうじゃない。
わたし自身、べつにわざわざしゅっとして歩いていることをこころがけているなんてことは全くないが、彼らに比べればそれ以外全員がしゅっとして歩いているように見える。
身なり。
うまく説明できないのだが、ホームレスの人またはホームレスに片足をつっこみかけている人特有のあの身なり。
広島でいうと、宮島ボート専用列車に乗っている人の身なり。
ビジュアル系アーティストのファンの集いならみな同じ服装と雰囲気、アキバ系ならみな同じ服装と雰囲気というのがなぜか確立しているが、それと同じくなぜか同じ服装と雰囲気というのが確立しているあの身なり。
わたしなんてファッションに気を配り大枚はたくなど愚の骨頂といってはばからない無頓着な男だが、そんなわたしでさえ自分の身なりはちゃんとして見える。
彼らはいったい何をしているのか?
ただ職安の階段に座っている。
ただ道ばたにいる。
ただ非常にゆっくりと道を歩いている。
それ以上はわからない。
生活保護が入金されればパチンコにいき、
半分以上すってしまえばワンカップを買って職安の階段で飲み、
ワンカップも買えなくなればただただ歩き、
ただひたすらにその日が過ぎるのを待っている、
かのように見える。
わたしはただ公共の道路を歩いただけで、それ以上は踏み込めなかった。
わたしは単なる一般人にしか見えないはずだが、それでも
「あっ、こいつここの住人じゃないヤツだな」
と、すれ違った全員にわかったはずだ。
だからそれ以上は踏み込めない。
彼らを見てどう思ったか?
世の中には自分より下がいるのを見て安堵する下層階級まがいなヤツがいるらしいが、とてもそんなふうには思えない。
今の自分の社会的な立ち位置から踏み外すとこうなるかもしれないという恐怖しかない。
ではどうしてこうなった?
某書(※1)にあった貧困のS字カーブをまたいで向こうにいってしまう何かがあったのだろう。
貧困のS字カーブとは、層の厚い中間層と層の厚い貧困層の間には断絶があり、中間点ではいったんどっちかに転がりはじめてしまうと正帰還がかかったかのように加速度的にもう一方の側に吸い寄せられる現象のことだ。
たとえば、パチンコでせっかく支給された生活保護の大半をすってしまうのは良くないことだとわかってはいても、娯楽が全くないことにはパチンコでもしないと気がまぎれないかもしれない。
遥か昔の景気の良いころにこのドヤ街に住み着いてしまうと、たとえ日雇いの求人が蒸発したとしてもそこから出るのには精神的にも金銭的にも敷居が高すぎて身動きが取れないのかもしれない。
不幸にも日雇い労働で体を壊して本当にあの歩き方しかできない体になってしまったのかもしれない。
そのどれが本当なのかはわからない。
だが、そのどれもが貧困のS字カーブをまたいで貧困層から中間層へジャンプアップする機会を全力で阻害する。
その晩は東京で彼らの1月分の家賃になろうかというホテルの部屋をとって泊まって帰った。
ベッドは広いし風呂も異常に広い。
たったの1部屋たったの1人で彼らが10人が過ごすほど使っているかもしれない。
ときどき使っているホテルだが、先の体験を思い返して恐ろしくなるほど快適だった。
わたしも不動産をはじめレバレッジをかけた取引に手を染め、そこで自分の引き受けられるリスクはどこまでなのかという問題に来る日も考えられさせられた。
いつも何気なく物欲のかぎり浪費している銭だが、自分に支払い能力があるというのはこんなにも幸せなのかということに驚かされるくらいである。
人はお金があっても幸せにはなれないというセリフを好む。
だが、お金がなければ幸せは遠のく。
【※1】
貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784622076513