9月はまた少しづつ「ココロネタ」を書いていきたいと思います。
私が、本格的に自分のココロに目を向け始めたのは、今から3年前、先輩のT女史にエニアグラムを教わったころでした。人それぞれ、親が違い、生活環境が違い、そんな中で自分が育てている価値観について立ち止まって考える余裕などない時期でした。
エニアグラムを学ぶ中で、「囚われ」と言う言葉が頻繁に出てきます。
最初は、この言葉の意味がさっぱりわかりませんでした。
人それぞれ「囚われ」が違うことによって、大まかに9つの性格に分類できるだなんて思っても見ませんでした。だって、それまでは、占いレベルでのタイプ分類ぐらいしか知りませんでしたから。
そして、囚われというフィルターを通じて、ものごとを見る。
このことも実感を得るには少し時間がかかったかもしれません。
まず、自分がエニアグラムのタイプチェックテストをしても、どうもそのタイプに収まりの悪さを感じていた時に、自分の動機を知る為に、自分が動揺したり、感情が高揚する時、あるいはひどく落ち込む時はどんな時なのか「ログ」を取ってみた時期がありました。
つまり、自分が経験したことが、最終的にどんな風に整理されているのか追跡をするのですよ。
えっ、マジでそんな面倒くさいことしたの?
って思われると思うのですが、やったんです(笑)
最終的に、恐ろしいことに、自分の課題を達成する上で、
・それは自分にとって有益なものなのか?
・それは自分の妨げにならないのか?
・それは自分の感情を混乱させないか?
・それは自分を伸ばし続けることができるか?
・それはできないはずがない、やればできる。
・だれもやらないなら、私がやる。
・万事、自己責任である。
(ホントはまだまだある)
そんな思いが働いて情報を取捨選択したり、人との付き合いをしていることに気づいたのです。
こう書いてみると、全く、温かみもへったくれもない自分勝手な人間で、こんなこと開示したらこれまで築いてきた人間関係を失いそうですよ・・・
(↑これも私ならではの感じ方の向かう先)
でも、自分でわかっているのがせめてもの救いと慰めています。
そういう基準を満たすか、そういう枠組みに入るか入らないかで、人、もの、観念、思想、心理状態、事柄、状況について五感から受けた刺激を分類して自分なりに意味を持たせて、認識しているのだと思います。
このことは、産業カウンセラー講座の中での宿題を通じても再度認識しました。こんな枠組みを持って、クライアントに向かった大変なことになりますよ・・・。
だからこそ、何か自分の中で自分が揺れる瞬間があった時には、自分の枠組みでモノゴトに臨んでいるのではないか?と、気づくようになれたのかもしれません。
自分の枠組みのことを、心理学では「準拠枠」と扱い、「フィルター」「色めがね」と比喩したりします。
私の場合は、「ヘルメットを取る」って表現が、しっくり来るんですけどね。
こういう自己開示は勇気がいるものでございます・・・・
↓
私が、本格的に自分のココロに目を向け始めたのは、今から3年前、先輩のT女史にエニアグラムを教わったころでした。人それぞれ、親が違い、生活環境が違い、そんな中で自分が育てている価値観について立ち止まって考える余裕などない時期でした。
エニアグラムを学ぶ中で、「囚われ」と言う言葉が頻繁に出てきます。
最初は、この言葉の意味がさっぱりわかりませんでした。
人それぞれ「囚われ」が違うことによって、大まかに9つの性格に分類できるだなんて思っても見ませんでした。だって、それまでは、占いレベルでのタイプ分類ぐらいしか知りませんでしたから。
そして、囚われというフィルターを通じて、ものごとを見る。
このことも実感を得るには少し時間がかかったかもしれません。
まず、自分がエニアグラムのタイプチェックテストをしても、どうもそのタイプに収まりの悪さを感じていた時に、自分の動機を知る為に、自分が動揺したり、感情が高揚する時、あるいはひどく落ち込む時はどんな時なのか「ログ」を取ってみた時期がありました。
つまり、自分が経験したことが、最終的にどんな風に整理されているのか追跡をするのですよ。
えっ、マジでそんな面倒くさいことしたの?
って思われると思うのですが、やったんです(笑)
最終的に、恐ろしいことに、自分の課題を達成する上で、
・それは自分にとって有益なものなのか?
・それは自分の妨げにならないのか?
・それは自分の感情を混乱させないか?
・それは自分を伸ばし続けることができるか?
・それはできないはずがない、やればできる。
・だれもやらないなら、私がやる。
・万事、自己責任である。
(ホントはまだまだある)
そんな思いが働いて情報を取捨選択したり、人との付き合いをしていることに気づいたのです。
こう書いてみると、全く、温かみもへったくれもない自分勝手な人間で、こんなこと開示したらこれまで築いてきた人間関係を失いそうですよ・・・
(↑これも私ならではの感じ方の向かう先)
でも、自分でわかっているのがせめてもの救いと慰めています。
そういう基準を満たすか、そういう枠組みに入るか入らないかで、人、もの、観念、思想、心理状態、事柄、状況について五感から受けた刺激を分類して自分なりに意味を持たせて、認識しているのだと思います。
このことは、産業カウンセラー講座の中での宿題を通じても再度認識しました。こんな枠組みを持って、クライアントに向かった大変なことになりますよ・・・。
だからこそ、何か自分の中で自分が揺れる瞬間があった時には、自分の枠組みでモノゴトに臨んでいるのではないか?と、気づくようになれたのかもしれません。
自分の枠組みのことを、心理学では「準拠枠」と扱い、「フィルター」「色めがね」と比喩したりします。
私の場合は、「ヘルメットを取る」って表現が、しっくり来るんですけどね。
こういう自己開示は勇気がいるものでございます・・・・
↓
久しぶりのエニアネタ・・・
うれしゅうございます。
私は、あまり自己開示しすぎると
自分を持ってないおばかさんと
思われないかと、ドキドキします
ちなみに、はるさんの
「それは自分にとって・・・・」
は、ちっとも冷たい人間とは思わないのです。
囚われていることに、やはり強く反応するのか
なと改めて思います。
そうそう、質問があります
今月のプレジデントにエニアの記事が出ています
タイプ別「効く言葉」「言ってはいけない言葉」
私のタイプのNGは、「いなくてもいい」・・・
はるさんのタイプのNGは「がんばらなくてもいい」
私は、どう考えても「いなくていい」の方がどんな人に対しても、NGワードだと信じて疑わないのですが、はるさん自身は、「がんばらなくていい」の方がNGワードと感じますか?
こんにちは!コメントありがとうございます。
最近、どのタイプにも落ち着かない自分です。
私へのNGワード「がんばらなくてもいい」は人から言われると、かなり抵抗を感じますね。どちらかというと自分が、何か昂っていると感じる時は自分で自分に声掛けをしたい感じです。
タイプ9への「いなくてもいい」については、まず、そんなひどいこと言う人ってどんな人なんですかね?そんな人いるんっすか?
プレジデント読みましたが、タイプ9についてはかなり違和感を覚えました。
いなくてもいい=「存在」する「価値」がないってことだったら、私なら人権侵害ですよと憤慨しますね。ことさら、頑張らないと価値がないと思っている「タイプ3」人間にとっては・・・。
人はみな、そこにいるだけで本当は価値があって、だれもがそれを認められたい欲求があると思うし、NGなのはタイプ9だけじゃないと思います。
「いなくてもいい」なんて言う上司がいたら現行犯で逮捕したいと感じています。
やはりそうですよね・・・。
そして、気がつきました・・・。
万人NGで、これくらいのことを言わないと
タイプ9には、グサッとこないってことなのかと。
また、エニアネタ楽しみにしてますよ!
タイプ9は、その他のNGワードを受け容れることができてしまうからこそ、これが本当に最後の切り札になるってことなんでしょうか?
でも、その他のどんなNGワードも「本当は自分はそうではない」とか、「本気でやれば見返せる」とかそういう思いがあるからこそ、却下できるとかそういうことってないんでしょうか?
タイプ9の受容性ってそういうところにあるのかなあと感じたりしていますが、どうなんでしょう?
他のNGワードは、確かにそんなにNGか?と感じますねえ。
でも、「自分は本当はそうではない」「本気でやれば見返せる」という感覚ではないのですよね。
「まだ、大丈夫」・・・。
一言で言うとそんな感じです。
受け入れるというより、溜め込んでいると言ったほうが良いかもしれません。
私は、ストレス時、多分「タイプ9」に向かっているような実感はあるのですが、たまに何か「嫌な感情」を溜め込んでいるのか、シャットアウトしているのかいまいちはっきりしないのです。
静かに処理している自分を感じてはいるのですが。
でも、限界に来たら「絶対、ヤダ、許さない」的発言をします。
最近、感情を表出させることは悪いことではないという思いのもと、小噴火が大きくなりました。
意外と悪くないもんだと最近、調子に乗っています(苦笑)