その日は、正月だと言うのに穏やかな陽が縁側に注いでいた。
島田荘司の「写楽-閉じた国の幻」という本を読みながら、私は不思議な感慨にとらわれていた。
確かに、島田が言うように、写楽が描く人物像は日本人離れしている。
垂れ下がった大きな鼻、異様に短い手。
***
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)は、江戸時代中期の浮世絵師と言われている。
彼は、寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)3月にかけての約10か月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版した。
しかし、その後、忽然として浮世絵の世界から姿を消した。
謎の浮世絵師として知られている。
本名、生没年、出生地などは不明で、その正体については様々な研究がなされてきた。
現在では阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年〈1763年〉? - 文政3年〈1820年〉?)だとする説が有力となっている。
***
ウィキペディアの説明だ。
島田は、違う推理を展開する。
江戸へ訪れたオランダ使節団の一人が描いたと言うのだ。
確かに、日本人ではない者の作品とするのは、興味深い話だ。
一方、斉藤十郎兵衛、という説も捨てがたいものがある。
藤十斉(とうじゅうさい)という語呂もあう。
面白いことに、『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「写楽斎 地蔵橋」との記録があり、八丁堀地蔵橋に“写楽斎”と称する人物が住んでいたことが確認されている。
同時期に、同じ場所に住んでいた住人に、伊能忠敬がある。
***
伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。
***
写楽と忠孝の志向する所は大きく異なるが、同じ頃、八丁堀に住んでいたと言うのは奇遇としか言いようがない。
そんなことを思いながらまどろんでいると、夢を見た。
江戸中期の、文化が爛熟した時代に、まるでタイムスリップしたような話だった。