人の一生というのは、旅人のようなものだ。
生まれ、
育ち、
自立し、
そして死ぬ。
その時の流れの中で、多くの経験を通して、自分の人生を反芻する。
理論物理学者、湯川秀樹の人生もそうだった。
このことを、彼は次のように述懐している。
***
中学を出て十年余りののち、私は、私の研究を発表した。
私はその研究の正しいことを、世界の学者に認めてほしかった。
それが正しいのなら、世界の人びとが容認してしかるべきだと思った。
が、―
私の理論が認められるということが、現在私の上に襲いかかって来ているように、こんなにも大量の、大小さまざまの負担というのか、雑用というか、―
とにかく学問の研究には最も大きな障害となるものを、もたらそうとは、全く予想していなかったことである。
学問というものが、広く深い意味で、常に人間のためにあることは認められねばならない。
思いがけない社会的関連も、生じるであろう。
しかし、学問を尊重する気持ちが国民の間にあるのなら、学者はなるべく研究室に置いて、ことさら繁雑な世界に引き出さないようにしてほしいと思う。
これは、私一人の注文ではないだろう。
多分、多くの学者たちの切ない望みだと思って、代弁しているのである。
***
現在のように、様々なメディアやネットワークによって多くの情報が行き交う時代では、静かな環境で研究に勤しむことが困難となってきている。
それでもなお、良識ある研究者は、静謐であることを好む。
研究の結果というのは、1%程度の確率で、世の役に立つものだ。
その中でも、学問や社会の根底を揺るがすような研究は、さらに1%以下の確率となるのだろう。
つまり、10000分の1の確率でしかない。
とすれば、10000÷365日、つまり30年くらいの猶予があってもよいのではないか。
それこそ生涯をかけた研究ということになる。
そのことを多くの人に理解してほしいと思う。