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DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

遍歴者の述懐 その24

2012-11-30 10:18:14 | 物語

敗戦ドイツからモスクワへ

1945年5月2日、ソ連軍が首都ベルリンを占拠した。ドイツやポーランド、ハンガリー、オーストリアにおける、彼らの略奪と暴行はすさまじいものがあった。特に、多くの女性がレイプされ、自殺者も多数出ていた。晃たちが疎開していたシャロッテンタル村にも、ソ連兵が侵入してきた。彼らの蛮行は目に余るものがあり、家族たちは恐怖におびえていた。ついに晃はある決断をした。

当時、日本とソ連は戦争状態になく、日ソ不可侵条約は維持されていた。そこで、晃は、村から6㎞ほど離れたところに設置されたソ連軍司令部に、子供を連れて出かけて行った。途中、死骸がゴロゴロと横たわり、腐臭がする田舎道を歩き、やっと司令部に着いた。

「私は日本人です。ソ連と日本は、不可侵条約を結んでいるので、貴国には日本人を助ける義務があると思います。今、数多くの日本人が、パリやブリュッセル、アントワープなどからこの地に避難してきています。これら日本人の家族をぜひ保護してほしい。」

司令官に、こう言って嘆願した。晃の必死の願いは受け入れられた。ただちに、銃剣を持ったソ連兵2名が護衛につけられ、晃と息子が道案内をして村までたどり着いた。このことによって、ソ連兵による略奪や蛮行はおさまり、日本人は比較的安全に生活ができるようになった。

翌日、農作物を持ってきたドイツ人の農民はこういった。

「いや、驚いたよ。てっきり、子供さんとあんたが処刑場に連れて行かれるのだと思ったよ。かわいそうにと皆で話していたが、無事でよかった。」

4~5日たって、モスクワ政府筋から、日本人避難者を陸路護送するようにという連絡がソ連軍司令部に届いた。その二日後、各自2個ずつの荷物を携行し、軍用自動車に分乗してモスクワへと出発した。それぞれの車に、警護の将校と兵卒が一名ずつ付き添って、何日もかけた長旅が始まった。

この時のソ連軍の対応は本当にうれしかった、と晃は述懐している。捨て身の嘆願だったが、求めればおのずと道は開ける、という信念が数十人の日本人の危機を救ったのである。この後すぐに、日ソ不可侵条約は破棄されるのだから、まさに綱渡りの避難行だった。

つづく

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11月29日(木)のつぶやき

2012-11-30 04:07:12 | 物語
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遍歴者の述懐 その23

2012-11-29 11:46:47 | 物語

ロッテルダムからの逃走

ドイツ軍は、一時北アフリカまで進軍し重要な拠点を占領したが、1943年にスターリングラード攻防戦および北アフリカ戦線で敗北した。その結果、イタリアが降伏し、ドイツ軍も後退を開始した。1944年に連合軍がノルマンディに上陸し、同年8月25日にパリを開放した。そんなある日、ベルリンの大島大使から晃に電話がかかってきた。

「鳥沢さん、すでに連合軍がパリからブラッセルまで迫ってきています。そのままロッテルダムにおれば、君たちの家族は連合軍によって捕縛され、捕虜収容所に送られるでしょう。一両日中にドイツ軍部と協議して、最後の列車を仕立てます。それに乗って、エムデン、ブレーメン経由でベルリンに避難してください。」

この事態を、晃はすでに予想していた。どこへ行っても2~3年は暮らせるようにとかねてから用意しておいた英国ポンド、米ドル、スイスフラン、スウェーデンクローナ、日本円、ドイツマルクといった各国通貨と、カバンにして30個の荷物を持ち、家族と共に列車に乗り込んだ。途中で連合軍による爆撃にもあったが、その時には森に逃れて難を避けた。そして、3日目にしてやっと、ベルリンへ到着した。

約一週間、ベルリンのホテルに滞在したが、連合軍の爆撃が次第にひどくなってきた。特に、ユダヤの金持ちが住んでいた高級住宅地であるグルネバルト地区への爆撃はひどかった。これにはわけがあった。居住地を追放されたユダヤ人の中には、自らパイロットに志願して、ナチへの報復爆撃に参加したものが多数いた。さらに懸賞募集までしていた。したがって、この地域の破壊には目を覆いたくなるような惨状があった。

こうしてベルリンが安全でなくなったので、大使館に紹介してもらって、ドイツ東部にあるシャロッテンタルという寒村に移動し、そこの由緒あるキャッスルに部屋を借りて住むことにした。それから約8か月間、晃とその家族は、この村で越冬のための薪割をし、書物を読み、ラジオのニュースを聴いたりしながら、ベルリン陥落までの日々を過ごした。

つづく

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11月28日(水)のつぶやき

2012-11-29 04:13:53 | 物語
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遍歴者の述懐 その22

2012-11-28 13:16:33 | 物語

円貨のインフレ

第二次世界大戦前、ドイツだけでなく日本も深刻なインフレに喘いでいた。

当時、日本からの輸出は急激な発展を遂げていた。日産ダットサンは、ロンドンやロッテルダムでは、沖着値段100ポンド(当時の日本円で1000円)で提示されていた。性能を確認するために、見本としてすでに2~3台が輸入されていた。また、北海道バターがドイツのハンブルグに100トン輸出された。久保田鉄工と栗本鉄工から、水道用鉄パイプ約8000トンがオランダのデルフゼイル港に荷揚げされていた。このような安価な日本製品の流入は、乳製品や鉄鋼加工の本場であるオランダに対して脅威を与えつつあった。したがって、多くのクレームや中傷がオランダ各地で発生しており、晃に調査や調停の依頼が殺到していた。

ある日、大阪の輸出商からの調査依頼がハーグにある日本大使館にあった。この会社は、子供用の自転車1000台をオランダに輸出した。ところが、納期の関係で塗料が完全に乾かないうちに荷造りをして出荷したので、包装紙が自転車に付着してきれいに取れなくなってしまっていた。売り物にならないということで、多額の弁済金の要求がオランダの買い手からあった。

「鳥沢さん、何とかしてくださいよ。」と大使館から頼まれ、晃はアムステルダムへ出かけた。現品の確認を行い、被害の程度を査定し、買い手との妥協解決にかかわる斡旋の労を取った。

ちなみに、当時の日本人の給料や手間賃は非常に安かった。国連の調査機関から、船長や船員の月給についてのアンケートがあった時、回答した数値に対して、これは週給なのかという質問があったくらいだった。つまり、欧米の給料の25%くらいだったと言える。

しかも、当時の日本の財政は、海外から見れば危険信号が点灯している状況だった。日本帝国の国債は、金利6分1000米ドル債権と金利4分100英ポンド債権で80%くらいしか買い手がなかったし、金利5分1000日本円債権に至っては30%しか売れなかった。いずれも償還期限は30年だった。

晃は、アムステルダム証券取引所で金利5分の1000円国債を大量に買い、知人たちに無償で配った。残りの債権は、日本への避難中に、ソ連軍の先遣隊に没収されてしまった。彼らにとっては紙くず同然だから、日本の借金が減ったと思えば気が休まる、と晃は笑って語った。

物を作り、物を動かし、物を売る、という行為が経済の基本であるが、このことによって必然的に発生するトラブルに対しても、だれかがきちんと対応しなければならない。それがないと、戦争が起こる。人類は、資源を食いつぶして現在の繁栄を享受してきた。裏を返せば、常に犠牲となるものがあった。かつては自然の資源であったが、次第にそれが希薄になってきた。より富裕な人と、より貧困な人の登場である。

つづく

*****************************

“戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ” ヴォーヴナルグ

アラン(1868-1951)が第一次世界大戦の前に書いた文章(1912年11月8日)

大半の人々は、平和を愛する。恐れからといふよりも、秩序と平静を好むからだ。この好みが自然なものでなかつたとしたら、人間が動物や諸物に君臨することは説明できなかつただらう。戦争は至る所にあると主張し、証拠として怒り、暴力、憎しみ、敵対関係、策略を持ちだす人の議論は、的を外してゐる。盗人、遊び人、要するに自分を世界の中心と考へて、全てを自分に引き寄せようとする人間ほど、戦ふ動物として、役に立たないものはないからだ。そんな人間は、良い皇帝には成れるかも知れないが、悪しき兵士であることは確かである。戦争は、一つの神話、叙事詩、青春、酔ひ、狂気であるが、決して自己愛の反応ではない。これは明らかだ。だから、全ての情念は、裁判所や警察が出てくるやうな、犯罪的なものであれ、戦争とは無縁である。一番良く戦ふのは、正しい人達、賢明な人達、そして詩人である。つまり、人間の最良の属性がそこに見られる。動物の世界に、戦争は無い。平和も無い。蟻は例外としよう。だが、蟻は協力といふ美徳を、つまり平和の美徳を示すことは、認めて貰ひたい。逆に、弱さと平和とには、遠い関係しかない。凶暴さと戦争との関係も、同様に遠い。

従つて、人が、大半の人々は平和を愛する、と言ふ時、戦争を忌み嫌つてゐると言つたことにはならない。人々が戦争を望んてゐないのは間違ひないし、拒絶してゐるとも言へるだらう。しかし、大事件により戦争に投げ込まれることとなると、戦ふ用意があることには変はりがない。戦争は服従がなければ始まらず、服従は平和の美徳である。戦争は、人々が自分自身以外のものを心から愛さなければ、長続きはしない。ところで、平和の基礎となるのも、この自然な詩情なのだ。多くの欲しいものを、いつでも諦める、といふ気持ちがなければ、秩序は保てない。それが出来ない者は、盗人であり、すでに人殺しである。それに、兵士としても役立たずなのは、上に書いたとほりだ。

だから、戦争の最も激しい反対者の裡にも、戦争があり、いつでも戦争があることは、簡単に示すことができる。そして、もつと穏やかな行ひと、より正しい心があれば、自然に戦争は遠ざけられるだらう、と考へるのは、恐らく、致命的な誤りだらう。人々が社会的であればあるほど、好戦的になる。平和主義者よ、君は、明日、戦ふだらう。もし野心家が、外交官が、自由に彼等の憎むべき働きを為すとすれば。それ故に、全ては、公的な権力に掛かつてゐる。実際、公的権力が、その王のやうな権利に、最も執着するのは、この点においてである。神秘的で、閉ざされをり、機密となつてゐる。平和主義者が全ての努力を向けるべきなのも、ここだ。統治者達の悪徳や情念には、人間の力の最も純粋で高貴なものを、殺戮へと駆り立てる、恐ろしい力があるからだ。ヴォーヴナルグの明晰な言葉を、もう一度、引かう。「悪徳が戦争を助長し、美徳が戦ふ。」

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11月27日(火)のつぶやき

2012-11-28 04:14:20 | 物語
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遍歴者の述懐 その21

2012-11-27 22:31:46 | 物語

ドイツ軍占領下のオランダ

オランダは、早い時期から植民地経営を行い、その莫大な収益によって悠々自適な生活を享受できる階級の人々が多かった。このことが、第一次世界大戦で植民地を失い、インフレに悩むドイツにとってはうらやましい存在だった。オランダには、戦前から反ヒットラー、反ナチの気運が高く、多くの防空壕を作ったりしてドイツ軍の侵攻に備えていた。

1940年のある日、晃は家族と夕食をとっていた。その時、突然電話が鳴った。

「鳥沢さんですか。」と、日本語が響いた。

「はい、そうです。どちらさまですか。」

「東京の読売新聞の記者です。」

「何でしょうか。」

「オランダ女王が、内閣のメンバーと共にイギリスに亡命したという噂を聞いたのだが、本当ですか。」

「えっ、女王はオランダにいらっしゃいますよ。こちらは平穏そのものです。」

そう、晃は返答した。不思議な話である。不可解な気持ちで就寝すると、午前3時ごろ、けたたましい飛行機の音に目が覚めた。ラジオでは、数え切れないくらいの飛行機が来襲しており、落下傘部隊がオランダ全土に降下してきているとのことだった。日本からの電話の意味がやっと理解できた。実は、ドイツ軍のオランダ侵攻は、数日前には日本軍当局に知らされていた。その情報が、新聞記者に漏れたのだ。

日本の大使館員が引き上げた後、オランダに残った唯一の日本人である晃のもとに情報の確認をしてきたのだ。ドイツ軍のオランダ占拠はあっという間に完了した。ドイツ陸軍将校および兵卒は、英国に攻め入る準備として、一般公共施設を徴用した。ただ、オランダ人の反ナチ感情が強いことから、安全のため民間人の家は徴用しなかった。

一方、日本人である晃の四階建ての家には、複数の高級将校が強制的に寄宿した。そのうちの一人は、英国の10シリング紙幣を見せて、英国に上陸したらすぐにこの紙幣を使うのだと嘯いた。

占領下のオランダでは、一般人がラジオの短波放送を聴取することは禁じられていた。ところが、晃はそれを許されており、米の配給も受けていた。これは、晃が枢軸国の国民であったことによるものだと理解していた。したがって、日本陸海空軍の侵攻に関する華々しい大本営発表が、英米からの発表と異なっていることを知っていた。戦線は、次第に緊迫の度合いを高めており、晃の家族にも決断の時が迫っていた。

つづく

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11月26日(月)のつぶやき

2012-11-27 04:12:58 | 物語
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遍歴者の述懐 その20

2012-11-26 12:28:36 | 物語

イスラムとユダ

晃が、失意のうちにベルリンからロッテルダムに舞い戻り、インドネシアから来ている留学生の保護に奔走する中で厄介な問題が出てきた。

スマトラとセレベスの王子が、それぞれにユダヤの女性と結婚していたことである。ユダヤ人は、胸にユダヤの星印をつけて外出するようにドイツ軍によって命じられていた。

ユダヤ人は、一般公共施設、鉄道、公園のベンチなどの利用を禁止されていたし、肉の配給も特定の店舗に限定されていた。ちなみに、敬虔なユダヤ人は、信仰上の理由から血の入った肉を食しない。ユダヤ独自の場があり、そこで作った肉缶詰を持って旅行し、決して異教徒による土着の肉は食べない。また、回教徒と同様に、豚肉は一切口にせず、豚脂(ラード)を料理に使うことはしない。

また、葬儀の時には、死者の生前の邪念を祓い清め、薄板の棺桶に入れ、早く昇天できるように三角の形に三本のくぎを打ちつけて埋葬する。そして、常に携帯しているパレスチナの砂を墓の周辺に少し散布し、あたかも祖国にいるかのように執行するのである。

「妻と一緒に旅行もできないのです。」という、王子たちの嘆きを解決するため、晃は一通の手紙をベルリンの日本大使館に送った。

手紙には、「回教の夫と結婚したユダヤの妻は、回教に改宗したわけであるので、ユダヤの印を胸から外して欲しい。そうしないと、インドネシアの王子たちは、妻と一緒に祖国へ帰ることができない。」と書いた。

その結果、日本大使館からドイツ軍司令部への働きかけがあり、王子たちは無事に帰国を果たすことができた。当時、ヒットラーによるAnti-semite(反セム主義)は、有色人種に対してもある程度影響があったが、必ずしも徹底はしていなかった。

ちなみに、Anti-semiteもしくはAnti-semitismは、反ユダヤ主義としてユダヤ教徒のみを対象としているが、一般にセム族というのはバビロニア、アッシリア、フェニキア、イスラエル、アラム、アラビア、エチオピアなどの諸人種をさしている。彼らは陰陽の神々エロヒム(創世記一章)を信じていたが、やがて、イスラムはエホバ(全能の神)に、イスラムはアッラー(太陽神)に分化した。エロヒムは、エル(女性形)の複数であり、複数の神々を意味しており、もともとは一即多神であった。

つづく

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11月25日(日)のつぶやき

2012-11-26 04:15:50 | 物語
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遍歴者の述懐 その19

2012-11-25 23:23:40 | 物語

新たなミッション

ベルリンに着いた晃は、早速、南米各国の大使館に行き、ビザの取得の申請を行った。そして、南米で買い付けた食料を、日本からシベリア鉄道経由でオランダに輸送することを確認するために、日本大使館へ出かけた。晃と面談した大島大使は、開口一番こういった。

「鳥沢さん、大変だ。ドイツが本日、ソ連との不可侵条約を破棄してウクライナに侵攻しました。」

「えっ、ではシベリア鉄道が使えなくなったのですか。」

「そうです。それどころか、日本の参戦もあるかもしれません。」

1941年6月のことだった。なんということだ。これでは、欧州大陸はますます孤立していくではないか。オランダ国民に、食料が届かないことをどう説明したらよいのだ。晃は困惑してしまった。

「鳥沢さん、食糧輸送の件は大変残念ですが、あきらめてください。でも、せっかくベルリンへおいでになったのだから、ぜひお願いしたいことがあります。」

「なんでしょうか。」

「実は、インドネシアからオランダに留学している学生の安否について問い合わせが日本の軍司令官あてに来ているのです。留学生がドイツ軍に徴兵されているという噂がインドネシアで広まっておるようなのです。実際、仕送りも出来ないようです。なんとか学生たちの安否を確認していただきたいのですが。オランダにいる日本人は、あなただけなのです。」

「そうですか。それは困ったことですね。私に出来ることでしたら、やってみましょう。」

食料を輸送する代わりに、386名の留学生の名簿をもらってロッテルダムに帰ることになった。しかし、この任務は思ったほど楽ではなかった。というのは、インドネシアからの留学生はすべて、ドイツの徴兵を恐れて地下にもぐっていたからだった。もらった下宿の住所には、誰もいなかった。

晃は、それでもあきらめないで、オランダ全国を探し回り、一人ひとりの安否を確認した。というのは、彼らの間にはネットワークがあり、一人見つけ出したら、芋ずる式に隠れ場所がわかったからだった。また、困窮にある留学生には必要な面倒を見てやった。そして、その結果を逐次、ベルリンの日本大使館に連絡した。

ちなみに、このときロッテルダム商科大学に在籍した留学生は、後にインドネシアの貿易大臣になったそうだ。

つづく

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11月24日(土)のつぶやき

2012-11-25 04:13:14 | 物語
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遍歴者の述懐 その18

2012-11-24 10:16:37 | 物語

車中の難

ベルリンへ向かう列車の中で、晃は一人物思いに沈んでいた。これから行おうとする大きなビジネスを前に、身が引き締まる思いだった。南米から食料を調達するという話を持ちかけてきたのは、他でもない、ロッテルダムに本社を置くファン・オメレン社の社長だった。英国に亡命政府を樹立したウィルヘルミナ女王の命で、彼はオランダ国民に食料を届けようとしていた。幸い、ファン・オメレン社はドイツ軍侵攻の前に大量の資金をニューヨークの銀行へ移していた。この銀行発行のドル建て小切手で決裁をするという条件だった。

薄暗いコンパートメントの中に一人坐り、どうしたらこの難題を解決できるのかを考えていると、不意にドアが開いた。入ってきたのは、サーベルを腰につるしたドイツ人将校だった。吐く息が酒臭く、思わず身構えたところ、将校が突然、晃に抱きついてきた。

「まて、私は日本人男性だ。離せ。」

大声で叫んだが、ドイツ将校は強い力で晃をつかみ、キスをしてきた。冗談じゃない、必死の力で抵抗をするがなかなか逃れられない。思わず金的を蹴り上げたら、やっと事態がわかったようだ。晃から体を離すと、コソコソと逃げるように外へ出て行った。小柄な晃を女性と見間違ったのかもしれない。ドイツ軍人から抱擁され接吻までされた男は、世界広しといえどもおそらく晃だけだったろう。

そう言えば、ロッテルダムにある晃の自宅を徴用して寝泊りしていたドイツ軍将校が、酒に酔って二階から転げ落ち死亡したこともあった。親切心から、晃は軍医と掛け合って事故死の届けをしてやった。そうすれば、未亡人に対して遺族年金が支払われるからである。

このように、戦争に疲れ、ドイツ軍兵士の軍規は大いに乱れていた。

つづく

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11月23日(金)のつぶやき

2012-11-24 04:18:05 | 物語
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遍歴者の述懐 その17

2012-11-23 09:21:53 | 物語

されど我が力のかぎり

「晃さん。私が属しているファン・オメレン社は、190年の歴史を有しています。大小のタンカーを所有し、シェル石油の総代理店として様々な運輸を受け持っています。オランダが占領された後も、ドイツ軍の命令で、ライン河周辺への石油や物資の運搬を担っています。あなたが身代わりをするという話を、ドイツ軍司令官が善意に受け取ってくれればよいが、万が一、逆鱗に触れるようなことがあれば、私だけでなく会社全体が被害をこうむる可能性があります。また、一人の日本人であるあなたが、オランダ人のために銃殺されたとなると、犠牲的精神の発露とはいえ、日独伊の枢軸国でありながら、あなたは祖国に弓を引く人間としてみなされるでしょう。そのことは、あなたの家族や知人に迷惑をかけるだけでなく、国際的にも大きな問題を惹起することになるでしょう。ですから、申し訳ないけれども、私はあなたの申し出をドイツ司令官へ取り次ぐことはできないのです。理解してください。」

そう、フリート氏は悲痛な表情で晃を諭した。

晃は、どうしてよいのかわからなかった。確かに、他国民を守るための自己犠牲が、ナチの司令官に素直に受け入れられることはないだろう。彼らには理解できない行動と思われても仕方がない。宗教的道徳心であったのかもしれないが、同時に純粋な義侠心でもあった。一度は捨てようとした命である。いつの日か、自分の命が役に立つこともあるかもしれない。憔悴しきって領事の家を後にした。次の日、彼の5人の友人たちは処刑された。

このようなおろかな行為を繰り返していく過程で、軍事体制にあったドイツも次第に食糧難に陥ってきた。オランダ国民が備蓄しておいたバターやチーズ、その他の食料が強制接収され、ドイツ国内や戦闘の前線に送られていった。さしもの酪農国家オランダでも食糧事情が悪くなってきた。特に、油脂類の不足は顕著だった。そんな中で、晃に南米まで食料を買い付けに行って欲しいという注文が舞い込んできた。ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチンで食料や油脂類を買いつけ、日本からシベリア鉄道経由でロッテルダムへ輸送しようといる、遠大な計画だった。

この準備のために、晃は急遽ベルリンへ赴いた。

つづく

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