円貨のインフレ
第二次世界大戦前、ドイツだけでなく日本も深刻なインフレに喘いでいた。
当時、日本からの輸出は急激な発展を遂げていた。日産ダットサンは、ロンドンやロッテルダムでは、沖着値段100ポンド(当時の日本円で1000円)で提示されていた。性能を確認するために、見本としてすでに2~3台が輸入されていた。また、北海道バターがドイツのハンブルグに100トン輸出された。久保田鉄工と栗本鉄工から、水道用鉄パイプ約8000トンがオランダのデルフゼイル港に荷揚げされていた。このような安価な日本製品の流入は、乳製品や鉄鋼加工の本場であるオランダに対して脅威を与えつつあった。したがって、多くのクレームや中傷がオランダ各地で発生しており、晃に調査や調停の依頼が殺到していた。
ある日、大阪の輸出商からの調査依頼がハーグにある日本大使館にあった。この会社は、子供用の自転車1000台をオランダに輸出した。ところが、納期の関係で塗料が完全に乾かないうちに荷造りをして出荷したので、包装紙が自転車に付着してきれいに取れなくなってしまっていた。売り物にならないということで、多額の弁済金の要求がオランダの買い手からあった。
「鳥沢さん、何とかしてくださいよ。」と大使館から頼まれ、晃はアムステルダムへ出かけた。現品の確認を行い、被害の程度を査定し、買い手との妥協解決にかかわる斡旋の労を取った。
ちなみに、当時の日本人の給料や手間賃は非常に安かった。国連の調査機関から、船長や船員の月給についてのアンケートがあった時、回答した数値に対して、これは週給なのかという質問があったくらいだった。つまり、欧米の給料の25%くらいだったと言える。
しかも、当時の日本の財政は、海外から見れば危険信号が点灯している状況だった。日本帝国の国債は、金利6分1000米ドル債権と金利4分100英ポンド債権で80%くらいしか買い手がなかったし、金利5分1000日本円債権に至っては30%しか売れなかった。いずれも償還期限は30年だった。
晃は、アムステルダム証券取引所で金利5分の1000円国債を大量に買い、知人たちに無償で配った。残りの債権は、日本への避難中に、ソ連軍の先遣隊に没収されてしまった。彼らにとっては紙くず同然だから、日本の借金が減ったと思えば気が休まる、と晃は笑って語った。
物を作り、物を動かし、物を売る、という行為が経済の基本であるが、このことによって必然的に発生するトラブルに対しても、だれかがきちんと対応しなければならない。それがないと、戦争が起こる。人類は、資源を食いつぶして現在の繁栄を享受してきた。裏を返せば、常に犠牲となるものがあった。かつては自然の資源であったが、次第にそれが希薄になってきた。より富裕な人と、より貧困な人の登場である。
つづく
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“戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ” ヴォーヴナルグ
アラン(1868-1951)が第一次世界大戦の前に書いた文章(1912年11月8日)
大半の人々は、平和を愛する。恐れからといふよりも、秩序と平静を好むからだ。この好みが自然なものでなかつたとしたら、人間が動物や諸物に君臨することは説明できなかつただらう。戦争は至る所にあると主張し、証拠として怒り、暴力、憎しみ、敵対関係、策略を持ちだす人の議論は、的を外してゐる。盗人、遊び人、要するに自分を世界の中心と考へて、全てを自分に引き寄せようとする人間ほど、戦ふ動物として、役に立たないものはないからだ。そんな人間は、良い皇帝には成れるかも知れないが、悪しき兵士であることは確かである。戦争は、一つの神話、叙事詩、青春、酔ひ、狂気であるが、決して自己愛の反応ではない。これは明らかだ。だから、全ての情念は、裁判所や警察が出てくるやうな、犯罪的なものであれ、戦争とは無縁である。一番良く戦ふのは、正しい人達、賢明な人達、そして詩人である。つまり、人間の最良の属性がそこに見られる。動物の世界に、戦争は無い。平和も無い。蟻は例外としよう。だが、蟻は協力といふ美徳を、つまり平和の美徳を示すことは、認めて貰ひたい。逆に、弱さと平和とには、遠い関係しかない。凶暴さと戦争との関係も、同様に遠い。
従つて、人が、大半の人々は平和を愛する、と言ふ時、戦争を忌み嫌つてゐると言つたことにはならない。人々が戦争を望んてゐないのは間違ひないし、拒絶してゐるとも言へるだらう。しかし、大事件により戦争に投げ込まれることとなると、戦ふ用意があることには変はりがない。戦争は服従がなければ始まらず、服従は平和の美徳である。戦争は、人々が自分自身以外のものを心から愛さなければ、長続きはしない。ところで、平和の基礎となるのも、この自然な詩情なのだ。多くの欲しいものを、いつでも諦める、といふ気持ちがなければ、秩序は保てない。それが出来ない者は、盗人であり、すでに人殺しである。それに、兵士としても役立たずなのは、上に書いたとほりだ。
だから、戦争の最も激しい反対者の裡にも、戦争があり、いつでも戦争があることは、簡単に示すことができる。そして、もつと穏やかな行ひと、より正しい心があれば、自然に戦争は遠ざけられるだらう、と考へるのは、恐らく、致命的な誤りだらう。人々が社会的であればあるほど、好戦的になる。平和主義者よ、君は、明日、戦ふだらう。もし野心家が、外交官が、自由に彼等の憎むべき働きを為すとすれば。それ故に、全ては、公的な権力に掛かつてゐる。実際、公的権力が、その王のやうな権利に、最も執着するのは、この点においてである。神秘的で、閉ざされをり、機密となつてゐる。平和主義者が全ての努力を向けるべきなのも、ここだ。統治者達の悪徳や情念には、人間の力の最も純粋で高貴なものを、殺戮へと駆り立てる、恐ろしい力があるからだ。ヴォーヴナルグの明晰な言葉を、もう一度、引かう。「悪徳が戦争を助長し、美徳が戦ふ。」