Banalityと言う単語をご存知だろうか。
英語の辞書には、次のように書いてある。
1. The condition or quality of being banal; triviality:
The banality of the speaker's remarks put the audience to sleep.
2. Something that is trite, obvious, or predictable; a commonplace:
Television commercials are full of banalities.
日本語では、「陳腐さ」とか「凡庸さ」と訳されている。
ちょっと唐突な話かもしれない。
1963年にハンナ・アーレントが雑誌ザ・ニューヨーカーに連載したアドルフ・アイヒマンの裁判記録である。
"Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil"
この日本語訳が
イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告 -
(みすず書房)である。
内容は、以下のとおりだ。
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ホロコーストを中心となって行ったアドルフ・アイヒマンの裁判の話である。
ホローコーストと言うのは、ギリシャ語にその語源を持ち、「全焼のいけにえ」を意味している。
第2次世界大戦後、ナチス・ドイツによるユダヤ人や他民族への破壊、大量殺人を意味することばとして用いられた。
今日では、特にユダヤ人(600万人)への大量虐殺を表現することばとして、一般化している。
第二次世界大戦後にアルゼンチンのブエノスアイレスでリカード・クレメント(Ricardo Klement)という名で潜伏生活を送っていたアイヒマンが、イスラエルの諜報機関によって極秘逮捕された。
彼がエルサレムに連行され、1961年4月11日に始まった公開裁判の後に死刑執行されるまでを描いている。
アーレントはこの本の中でイスラエルは裁判権を持っているのか。
アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか。
裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げ掛けた。
また、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、極普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描いた。
また、アーレントは国際法上における「平和に対する罪」に明確な定義がないことを指摘した。
そして、ソ連によるカティンの森事件や、アメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判した。
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よく、"Banality of evil" は、"Banality of hero" とも対比されて議論される。
「悪の陳腐さ」とか「凡庸な悪」とか訳されているが、ちょっと外れている気がする。
悪にしても、英雄にしても、ありふれたものから起こりうること言いたいのだと思う。
ある状況になれば、一般の誰でもアイヒマンになるし、スーパーマンにもなりうるのだ。
アーレントが言いたかったことはそういうことだ。
時の為政者が、「普通のよい人」であったとしても、周囲の状況が整うと、「非情な独裁者」にもなりうる。
あの人がまさかそんなことをするはずがない、と思われていても、状況次第では「悪人」になりうるのだ。
そういう意味で、力を持つ人は、いつも細心の注意を払う必要がある。
ちょっとした言動が、国家や国民を大きな厄難に陥れることがあるのだ。
「賢者は過信せず、愚者は傲慢を得る」