DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

12月28日(金)のつぶやき

2012-12-29 04:08:08 | 物語
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12月27日(木)のつぶやき

2012-12-28 04:10:52 | 物語
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遍歴者の述懐 その50

2012-12-27 01:15:09 | 物語

エピローグ

鳥澤晃は1986年11月27日に永眠した。88歳だった。最後に分厚いメモを手渡されてから5年の月日が経っていた。この5年間に、晃の体力は急激に消耗した。そして、彼の『ネパールへの夢』が実現されることはなかった。

今。2012年も終わろうとしていた。やっとこうして、彼のメモ書きを一つ一つ解きほぐしながら、50個の小さな文章に仕上げることができた。できるならば、これらを一つの文章にまとめて大きな物語を作ることが、晃との約束である。1981年に会ってから、ずいぶん時間がたったものだ。当時、俊一は30歳だった。これまでは自分の仕事が忙しくて、とてもこのような作業ができる環境ではなかった。

最期に晃が語った言葉『積極的な諦観』とは何だったのだろうか。ふつう、我々は、仕方なく諦める。世の中には不条理なことが多いからだ。何かをやりたくてもできないとか、何をやっても失敗するとか。うまくいかないことが多くて、しぶしぶ諦める。いずれにしても消極的な諦めが圧倒的に多い。しかし、晃は積極的な諦観が世の中を救うと言った。

仏教では、諦観とは「あきらかに真理をみる」と教えている。そうか、宇宙と自我の一体化、すなわち梵我一如のことか。古代インドにおけるヴェーダ(知恵の書)の悟りであるブラフマン(宇宙真理)とアートマン(個人原理)とを同一にせよ、という意味なのか。私たちは、個としての我を認識できるが、それは真理の一部分でしかない。それぞれの個人はそれぞれの価値観を持ち、それぞれの存在の中に正義を持っている。それをすべて纏め上げれば、真理に達する。すなわち宇宙を知ることになる。しかし、それは不可能だろう。なぜなら個人原理をすべて知ることさえ出来ないからである。

どうするか。それが宗教の、哲学の、科学の究極の問いかけである。晃はかつて次のように語った。

「ラジャヨガの経典が示すように、人間はわが肉体を自分自身だと思って、今日に至るまでまだ真の自分を知らないでいます。だからこそ、迷いが生じるのです。すべてが運命であると思うこと、すべてが神の仕業であると思うこと、すべてが偶然であると思うこと、これらはいずれも間違いだということです。」

難しいな。いずれにしても、今は鳥澤晃のご冥福を心から祈るだけである。もし彼岸があるのならば、あの世とやらで、ゆっくり彼の講釈を聴こうと思う。白馬に乗って、この世の中を救うのは誰なのかと。

 

きみよ きみ

さらさらとなる 木の葉のささやきに

静かに 耳を傾けながら

古きものと 新しきものが

行き交うのを 眺めよう

 

さくや さく

時をつむいで 生まれくる命に

ほっとした 吐息を吹きかけて

早きものと 遅きものが

繰り返して 歌を聴く

 

ゆくや ゆく

止まることない 流れに身を任せて

過去から 未来に向けて

強きものと 弱きものが

絡み合って 消えていく

 

しるや しる

世に生まれ来た 生命の躍動に

おどろいて そっと手を触れる

来るものと 去るものが

知らないまに 入れかわる

(おわり)

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12月25日(火)のつぶやき

2012-12-26 04:15:57 | 物語
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遍歴者の述懐 その49

2012-12-25 15:48:00 | 物語

秋の日は短い。あっという間に日が落ちた気がする。

「私は、もう一度ネパールへ行きたい。」

83歳の年老いた体をデッキチェアーから起こすと、晃はつぶやいた。長い話を語り終えた彼の顔には、満足の表情が浮かんでいた。明治・大正・昭和と生き抜き、決して休むことを知らなかった彼の体躯からは、まだ強い生命のエネルギーがほとばしっていた。それは、不屈の意志であり、究極の愛情であった。

「あの国には、何かがある気がするのです。ヒンドゥー教とラマ教が混在する世界。騒音と静寂が対峙する世界。神と人間が共存する世界。古の時代から、多くの巡礼者、受難者、伝道師たちが滞在し、語り合い、旅立っていった世界。そこには、人類の歴史の痕跡が残っています。大国同士が侵しあう世界の歴史のはざまで、どうすれば人類が生き延びることができるのかを、真剣に考える必要があります。できることなら、私の家族のため、私の祖国のため、世界の平和のために、もう一度ネパールに行きたいと思います。」

日本という国が、どのようにして形作られたかについては多くの説があるが、どれも信憑性に欠けている。ただ、確からしいことは、複数の民族がたどり着いた果てが、日本列島という島国だったということなのだろう。その東には、深くて広大な海が広がっていた。まさに、極東だったのである。この地に着いた人々は、太平洋を見て絶望し、狭い陸地に安住の地を見出そうと努力してきたのだろう。その結果、大和民族という混合民族が形成されたと考えるのが妥当なのだろう。しかも、それは、『神』という名のもとに統合されてきたのだ。

「惟神道という言葉を知っていますか。『かんながらのみち』と読みます。国学者の賀茂真淵が『国意考』という書物の中で、『日本人には和らぎの心があるので、古代の素直な心情に帰ることが国家を治める上で大切である』と述べています。これが惟神道の精神です。地の果ての島にたどり着いたさまざまな民は、互いに共存する道を選んだのでしょうね。日本人は、忍耐強くて、優しい民族です。世界の多くの国を遍歴して、つくづくそのことを感じました。」

そういえば、ネパールやブータンの人々は、日本人とよく似ている。

「ネパールには、北に巨大な山がそびえたっています。『神々が住む山』ヒマラヤですね。これは、大きな壁です。そして、尊厳な存在です。東西から来た人々は、この地で休息したのでしょうね。ですから、この地には、いろいろな知恵が埋もれているはずです。私がジャワでお目にかかった大谷光瑞師も仏蹟を求めて訪れています。私は、多くの思想家や自分の経験から、『積極的な諦観』ということを学びました。皆がほしいと思って簒奪をするほど、この地球は豊かではないのです。」

浄土真宗本願寺派の法主であった大谷光瑞は、1902年から1914年までの間3回にわたって大谷探検隊を西域に派遣している。多くの探検家や冒険家を魅了してやまないネパールの地は、晃にとって原点とも言える憧れの場所であった。

「ところで、私はネパールでギーを買い付けて、ヨーロッパで売りたいと思っています。これは、日本人、ネパール人、ヨーロッパ人のみんなが喜ぶ仕事だと思いませんか。三国貿易を旨とする、日本の歩むべき道だと思います。ちょっと疲れてきました。それが私の『夢』です。」

そういって、晃は再びデッキチェアに体を預けた。

「どうも、長い時間、私の話を聞いてくれてありがとうございました。私はもう少しこうして、私の『夢』の続きを見たいと思います。夢の中で、大好きなネパール料理『ダルバ・タルカリ』をごちそうになります。ナマステ。」

つづく

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12月24日(月)のつぶやき

2012-12-25 05:33:47 | 物語
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遍歴者の述懐 その48

2012-12-24 11:49:43 | 物語

回向と供養の義務

「長い人生の間に、私はいろいろな人と出会い、さまざまな場面に遭遇してきました。運も良かったのだと思いますが、何とか危難も潜り抜けてくることができました。第一次世界大戦の時には、ジャワにいました。第二次世界大戦の時には、オランダにいました。今、最も恐れているのは、第三次世界大戦の始まりです。戦争はいけません。破壊でしかないからです。」

晃の眼から、一筋の涙がこぼれた。

「数年前に、豪州のブリサウトンからポートモレスビーへ行き、そこからニューブリテン島のラエ経由でラバウルへ行きました。ご承知のように、この一帯は、ブーゲンビル島と同様に、何万人という日本の陸海軍の戦死者を出したところです。私はこの周辺を見学し、墓参りをしてきました。眺望のよい山頂には、静岡県の慰霊団が建てた小さな碑があり、そこで合掌してきました。その傍には、砲身三メートルはある大砲が、豪州の方角に向けられたまま放置されていました。なぜ撤去しないのだろうか、と不思議に感じました。収集団が持ち帰った遺骨も、一部にしか過ぎません。それが残念でなりませんでした。」

人間とは不思議なものである。若くて元気なときには、回向とか供養には興味を示さない。ただ、ガムシャラに生きようとする。結果、争いを引き起こすこともある。それは、動物すべてに見られる生存への葛藤でもある。このことは、時として、他の種の滅亡をもたらすこともある。人間が他の動物と違うことは、死者を弔う点である。

「帰国してからある会合に出席した時に、偶然、霊媒師が来ておりまして、私の背後に戦争で死んだ人々の霊が見えるというのです。まさかと思いましたが、具体的に宮城県の宮沢五市連隊長以下何十名かの連隊兵士の亡霊の名前まで挙げられると、気味が悪くなりました。といいますのも、その霊媒師は、私がラバウルから帰国したことを知らなかったからです。早速除霊をしてもらった記憶があります。」

人が年を取り自分の生命の終焉に近づくとき、もしくは大きな危難に遭遇したときに、妙に宗教的になるものである。ただ、晃が述べている宗教というのは、特定の宗教をさしているのではなく、宇宙の秩序というものである。

「宗教とは、宇宙のいたるところに存在する無限絶対な『根源的にあるもの』だと思っています。それを畏敬し、崇拝し、全託することによって、安心立命を得ようとする、根本の教えが宗教ではないでしょうか。聖書で言うように、人間はその本質にあって不老不死の光明体であるのだと思います。そのことが、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(「我は在りて有る者」のヘブル語:出エジプト記三・一四の言葉)と、伝えられている所以かと思います。」

この話は無条件では理解しがたいが、宇宙が誕生したとき、確かに『敵』とか『悪』とかは存在しなかったはずである。それらは、人間の意識下の中で作り出されたものであり、猜疑心、憎しみ、妬みなどを捨て去らない限り、解脱はないというのは真実だろう。しかし、それが可能だろうか。過去から、いくつかの解答が用意されてきた。それが、宗教であり、信仰であった。しかし、そのような宗教が、新たな争いを引き起こしているのも事実である。晃の述懐も次第に終わりに近づいてきた。

つづく

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12月23日(日)のつぶやき

2012-12-24 05:09:07 | 物語
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遍歴者の述懐 その47

2012-12-23 13:00:44 | 物語

南米へ

晃は、戦後まもなく南米へ出かけた。表向きは観光だったが、本当は新たな大豆の購入先を探す旅だった。

ブラジルのリオデジャネイロは、驚くほど近代化を遂げていた。多くの新しいビルが建ち、港も美しく整備され、コパカパーナの白い海岸は輝いていた。世界大戦の影響を受けなかったこの国は、多くの外債を得ており、それを存分に活かした国づくりをしていた。すべてを破壊していく戦争ほどおろかなものはない。

続いて、ビジネスの中心地サンパウロを訪れ、それから、リオグランデ・ド・スール州にあるポート・アレグレとリオグランデを訪れた。共に、日系人が多く、行く先々で歓待を受けた。戦前から多くの移民がこの地に移り住み、大変な苦労をしながら現在の社会的地位を築き上げたことを思うと、頭の下がる思いがする。

ブラジルからウルグアイへ移動し、首都のモンテビデオに到着した。この国は、当時、積極的に人種平等主義に基づいた福祉国家の建設を進めており、「南米のスイス」と呼ばれていた。日系人の多くが花屋を営んでおり、平和な国の印象が強かった。

「彼らはインドのガンジーに心酔していてね、彼のような人に指導者になって欲しいと願っていましたよ。隣国アルゼンチンとは仲がよくなくてね、政治亡命者をかくまってやったりしているようでした。」

と晃は語ったが、1950年代後半から内戦が起こり、古きよき時代は崩壊していった。

アルゼンチンへの旅は、楽しいものではなかった。まだ独裁者フアン・ドミンゴ・ペロンが政権を握っており、彼の妻エバ・ペロンも生きていた頃である。「エビータ」という愛称で呼ばれたエバは、私生児として生まれ、十分な教育も受けていなかった。やがてラジオの声優になり、最後には大統領夫人にまで駆け上って行く話は有名であるが、彼女に対する評価は大きく分かれていた。

「エバは、労働者のために巨大なプールを作っていました。当時のアルゼンチンは社会主語国家とも言うべき時代で、私なども情報機関から監視されていたようです。とてもゆっくりと視察が出来るような雰囲気ではなかったので、そうそうに逃げ出すことにしました。ところが、出国の際に、国内でビジネス活動をしたのだから税金を払えというのですよ。エバが多くの施設を作るものだから、資金集めのために取れるところから少しでもお金を取り立てようとしていたのですね。私の滞在はわずか数日間で、確かにビジネスマンと話はしましたが、実質的なビジネスは何一つ出来ていなかったのです。そこで、弁護士を雇って身の潔白を証明し、やっと出国することが出来ました。二度と行くものか、と思いましたね。」

それから、晃は思いついたように付け加えた。

「アルゼンチンでのことですが、もっとも有力な穀物輸出商の役員に会ったとき、彼の机の上に日光の三猿の像が置かれてありました。これはどうしたのだと聞いたら、日本へ行った友人からお土産にもらったというのです。像の意味を知っているのか、と問うたら知らないとの答えでした。そこで、少し講釈をして差し上げました。」

ひとつ咳払いをすると、晃はこう続けた。

「『三猿像の意味は、見ざる・聞かざる・言わざるですが、消極的に相手の欠点を見たり、聞いたり、言ったりしないということではなくて、むしろ積極的に相手の実相を見なさい、という教えです。』と説明したのですが、『そんな深遠な意味があるとは知らなかった』と感心しておりました。」

ちなみに三猿像は、古代エジプトにもあり、世界各地に広く受け継がれている。

つづく

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12月22日(土)のつぶやき

2012-12-23 05:01:16 | 物語
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遍歴者の述懐 その46

2012-12-22 17:24:05 | 物語

たかが言葉、されど言葉

「かつての豊年製油の社長、杉山元太郎さんとは、オランダのユニリーバ社と豊年の合弁を成し遂げて以来、非常に懇意にさせてもらっていました。例の、ラーマで有名な会社です。戦後、よく二人で海外へ視察に出かけていました。杉山さんは、すでに故人となられましたが。」

晃は、懐かしそうに話した。

「スウェーデンに行った時のことです。二人で観光ツアーに参加したのですが、途中で、ハワイの日系人と知り合いになりました。彼も、このツアーに参加していたのですが、私たちが日本人とみて話しかけてきたようです。あちこち回って見学してから、途中でトイレに行きたくなりました。しかし、周囲には公衆便所なるものが見当たりませんでした。探していると、その二世の方が、『あんた達も小便たれていのかい。あっちにあるよ。』と教えてくれました。お礼を言って小用を足しましたが、ついでに彼の言葉使いを正してあげました。おそらく、移民の父親から習った日本語でしょうが、『小便をたれる』というのは、初対面のしかも目上の人に対して使う言葉ではありません。何気なく私たちが使っている言葉ですが、いつも正しい言葉を使うように気を付けないと、知らない人を傷つけたり不愉快にさせたりするものです。」

確かに、言葉というのは意識しながら使わないと、誤用や悪用を正すことができなかったりする。また、言葉は時と場所によって変わっていくものでもある。おそらく、それには何らかの必然があるのだろうが。1000年以上の歴史を持って語りつがれてきた言葉を、なるべく変更しないで次世代にも伝えていくことは、私たち民族の重要な役割でもあるのだろう。

「戦前、ロッテルダムでビジネスをしていた時のことでした。ロンドンから日本政府の役人が来て、何かブツブツ言っていました。よく聞くと、ロンドンで会った日本の一流商社の支店長が、初対面の彼に『メシを食いに行こう』と言ったそうです。これは学生言葉であって、高級官僚は不愉快に感じたそうです。大人げないと言えばそれまでですが、気分を害する人もいるので、言葉の使い方には気をつけたいものです。」

そう言って晃は笑いながら、次のことばを付け足した。

「フランスに、『Qui sexcuse saccuse』という警句があります。英語では、『He who excuses himself accuses himself』とでも言うのでしょうか。『自己弁護するものは、自分の罪を告白するものである。』つまり『言い訳無用』ということです。言い換えれば、『人間は、自分自身を偽らない限り、他のものから汚れることはない』とも言えます。私は、この警句が好きで、座右の銘としています。すべては自分からでて自分に還るものだから、自分を不幸にするのは自分なのです。自分が正しい言葉を使えば、相手もそのように振る舞ってくれます。」

つづく

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12月21日(金)のつぶやき

2012-12-22 05:04:44 | 物語
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遍歴者の述懐 その45

2012-12-21 17:56:29 | 物語

ヨハネの黙示録

「黙示録21をご存知ですか。」

ロッテルダムから英国へ向かう汽船の中で見かけた紳士に、晃は話しかけた。第一次世界大戦前のことである。当時、オランダの3か所から英国行きの船が出ていた。ビジネスの関係で、晃は週に一度は、この船を利用してドーバー海峡を往復していた。

夜8時にロッテルダムを出港する船に乗ると、早朝に英国の港へ着き、汽車に乗り換えると朝9時前にロンドンに着く。ビジネスには、なかなか効率の良い移動だった。

一般に、英国紳士は東洋人に対して無口であり、幾分傲慢でもある。時には優越感を漂わせたりすることもある。癪に障るので、晃は、聖書の話を選んで質問することにしている。キリスト教的素養のある西洋人は、聖書の解釈にはうるさい。それの逆手をとって遣り込めるのである。

「もちろん。」と男は言った。

「21の1~4の聖句をどのように解釈しますか。」と晃は応じた。

これはいじわるな質問である。黙示録というのは、新約聖書の最後にある書で、唯一、予言的な内容が書かれている。文章は、恐ろしく難解というか、意味不明である。

1         また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

2         私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

3         そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、

4         彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

「私は、これまでにこの章句の意味について、多くの教会牧師や宗教学者に尋ねてきました。しかし、明確な解答を得ることができませんでした。お見かけしたところ、あなたは東洋人のようだが、どのように解釈されるのでしょうか。」

と、件の英国紳士は問いを投げ返してきました。おもむろに、晃は自説を展開した。

「時間とか空間というのは、哲学的に言うならば、現象的な存在でしかありません。それは、悟りを開いた人にとって見れば、子供の遊具のようなものです。神が創造したものでない悲しみは、自らが作り出したものです。しかし、悲しんだ後でなければ、真の幸せを味わうことはできません。それが現実の世界です。結局、心が神になれば、人間こそが神になるのです。つまり、海と表現された空間を楽しみ、今日という時間を活かして生きる人には、すべての物事が成就し悟りの境地が開ける。すなわち神性復活を象徴表現したものです。」

その英国紳士は、大いに共感し、以降、晃の親しい友人となったということだった。本当に理解したかと言えば、怪しい話である。しかし、キリスト教徒でもない東洋人が、白人である英国男性に、滔々と黙示録の講釈を垂れたということに感激したのだろう。なぜなら、宗教の解釈には、深い素養が必要だからである。

負けるな、東洋人。

つづく

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12月20日(木)のつぶやき

2012-12-21 04:46:28 | 物語
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遍歴者の述懐 その44

2012-12-20 13:46:55 | 物語

宇宙の真理

「カリンポンやカトマンズにあるチベット寺院を訪れると、多くの老若男女がマニ車(マニコロ)を回している姿が見られます。時計回りに1回まわすと、内側にある経文を1回読んだことになるらしいですね。同時に、『Om Mani Padme Hum (オム・マニ・ペメ・フム)』というマントラを唱えます。マントラというのは中国では『真言』と訳されていて、お祈りという意味です。」

晃のことばに熱がこもってきた。

「英語では『Hail to the Jewel in the Lotus Flower』と訳されることが多いようですね。マニ車は108個あって、108の煩悩を超越して涅槃の境地に入る、つまり生き仏になるという信仰ですね。密教で説く『入我我入』や、エホバ神がモーゼに説いた『我は在りて有る者』という自存意識とも共通するのかもしれません。」

話の内容が、だんだん難しくなってきた。

「ヒッピーやヨガの聖者が憧れる『バガヴァド・ギーター』という詩を知っていますか。ヒンドゥー教の重要な聖典の一つですね。叙事詩『マハーバーラタ』の中に出ているのですが、自我を捨てて勤めを果たしなさい、と諭しています。存在するものすべては、この宇宙に必要なものです。すべてが、絶対的な価値と使命を持っています。そのことを悟り、宇宙と一体になりなさい。そうすれば何と幸福なことだろうか。ヒマラヤの山々を見ていると、そんな宗教の教えが何となく理解できそうな気がするから不思議です。」

晃は、決して宗教家ではないし哲学者でもない。彼は、れっきとしたビジネスマンであり、第一次世界大戦と第二次世界大戦を果敢に生き抜いた有徳の人である。ただ少しばかり他人より好奇心が旺盛であったことから、中国語、マレー語、英語、オランダ語、ドイツ語に堪能となり、ヘブライ語やサンスクリット語まで習得していた。華僑からフリーメイソン、ユダヤの民まで幅広い人脈を持ったがゆえに、多くの宗教と触れあった。自らをコスモポリタンと呼ぶ所以でもある。

「イラン中部に起こった『バハイ教』は、釈迦やキリスト、マホメットなどは、同一の神から派遣された聖人であると言っています。そのために他の宗教から迫害もされているのですが、彼らの信仰の中に『白馬に乗った救世主(メシヤ)が東方から来て世を救う』という教えがあります。実に興味深い予言です。日本で『世界宗教者平和会議』が生まれたのもわかる気がします。問題は、白馬に乗るのは誰か、ということですが。」

と言って、晃は笑った。

つづく

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