~佐久良東雄旧宅~ 茨城・石岡市浦須314-
佐久良東雄(さくらあずまお)は、江戸時代後期の歌人で、常陸国新治郡浦須村の農家に生まれました。本名は飯島吉兵衛で、9歳で僧侶となりましたが和歌を好み、歌名を東雄、号をきょう園と称しました。37歳で平田篤胤の門人となり、万葉の歌を学び国学を究めましたが、その後僧衣を焼き捨てて俗人に戻り、桜(佐久良)靱負(ゆきえ)と称しました。
35歳で京都に上り、皇居の衰微を嘆き尊皇運動に急進しました。その後50歳の春には「桜田門外の変」で、井伊直弼を襲撃した水戸浪士をかくまったとして因われ「徳川の粟を食わず」と言い、江戸伝馬町の獄中で絶食死したと伝えられています。
旧宅は、18世紀半ばから後半に建てられたものと推定されています。長屋門、母屋と土蔵が往時のまま残されています。
「国指定重要文化財」
現在も使用されていますので見学は外観とその周辺のみです。
見学:無料
駐車場:あり
佐久良東雄(さくらあずまお)は、江戸時代後期の歌人で、常陸国新治郡浦須村の農家に生まれました。本名は飯島吉兵衛で、9歳で僧侶となりましたが和歌を好み、歌名を東雄、号をきょう園と称しました。37歳で平田篤胤の門人となり、万葉の歌を学び国学を究めましたが、その後僧衣を焼き捨てて俗人に戻り、桜(佐久良)靱負(ゆきえ)と称しました。
35歳で京都に上り、皇居の衰微を嘆き尊皇運動に急進しました。その後50歳の春には「桜田門外の変」で、井伊直弼を襲撃した水戸浪士をかくまったとして因われ「徳川の粟を食わず」と言い、江戸伝馬町の獄中で絶食死したと伝えられています。
旧宅は、18世紀半ばから後半に建てられたものと推定されています。長屋門、母屋と土蔵が往時のまま残されています。
「国指定重要文化財」
現在も使用されていますので見学は外観とその周辺のみです。
見学:無料
駐車場:あり