朝方は曇り空でしたが、日中は晴れ、気温、湿度も上がって蒸し暑かったですね。
洗足池で、ちょっと気を惹かれた白い花がありました。
地面に近いところで、茎がまっすぐ横に伸びて、シンメトリックに葉をつけて、先端にちょこんと白い花です。
画像検索では、バイカウツギでしたし、類似の画像でも似たものはたくさん出てきたのですが、
調べると、バイカウツギは本木類(茎が幹化する)の落葉樹などで、茎が伸びている、たぶん草本類のこの花は違うしょうね。
あ〜あ、またわからない。。。
ところで、バイカウツギを漢字で書くと「梅花空木」。なんか情趣を感じさせますね。
でも、名前の由来はシンプルで、梅に似た花を咲かせる空木(茎が空洞化する)だそうです(苦)
さて、昨日は、おおた区民大学「地域でいきいきと暮らしていくための知恵」の第2回で、東京衛生専門学校に行ってきました。
その模様は別途ご紹介させていただくとして、
本日、6月21日は、1582年(天正10年6月2日)に本能寺の変が起きた日です。
歴史好き(平安期から戦国期)の私としては、語りだせば、尽きることのないトピックでもあるのですが、
信長を裏切った、というか裏切らざるを得なかった武将、浅井長政(義理)、荒木村重(人情)、松永久秀(プライド)、そして明智光秀には、
それぞれ、歴史ロマンスとは異なる想いがあって、437年前に、本能寺の変の起きた今日は、明智光秀についてちょっと話したいと思います。
本能寺の変の背景、理由としては、
- 家康接待で叱責された、その前に、武田討伐の酒宴で叱責された。さらに遡ると、降伏した波多野兄弟を殺したため、人質であった実母が殺された怨恨
- 長曾我部との取り次ぎ役であったため、四国討伐は自分が、と思っていたところ、丹羽長秀に帰られ、ライバル秀吉救援でメンツをつぶされ、さらには、丹波、坂本の召し上げ(替地は、まだ敵地の出雲、石見)となった不平不満
- 信長は、朝廷の人事権、暦を定める権威を取り上げようとし、さらには信長が天皇家にとってかわる恐れから、取り次ぎ役として仲のよかった光秀がそそのかされた。
- 実は、秀吉との共謀説(秀吉が裏切った、光秀はだまされた、ので事後、光秀は孤立)
など、後世の推測は色々あります。
そして、それぞれが本当に背景であり、間接的な理由であろうと思います。
しかし、背景や理由と推測される出来事がなんであれ、
引き金を引いたのは、性格があわないストレスを、最後に(急激に)抑えきれなくなったのではないかと。
私個人の感覚に落としてみると、
性格や考え方、または所作(礼儀とか、慎ましさとか)が、合わない人とは合わない、合わせられない。
それでも流れに乗っていれば、なんとか我慢もできます。その先にある目標の達成感への期待感が上回るんでしょうね。
でもそれは、あくまで、仕事や組織が、良くも悪くも流れに乗っている時です。
むしろ、忙しい時ほど、性格の不一致にかかわっているより、どうしたら、その嫌な人を動かして、前に進めるかぐらいポジティブに対応できるものです。
(最近のラジオの広告で、若手「うちは悪くないのに何で謝るんですか?!」先輩「謝るのは、悪い方じゃない。先に進めたい方だ」というのがありますが、まさにそれ)
しかし、環境の変化があって、その流れが止まると、心の奥、気持ちの奥に収まっていたものが、湧き出してきて、これまでは抑えられていたものが、抑えきれない、我慢の閾値が、一気に下がるものです。
私が、うつ病に罹った時は、まさにそんな感じでした。
そして、一旦、閾値を割ったら、お終いです。自分の心や気の持ちようで補正は不可能でした。
さて、信長、光秀の生い立ち、性格、考え方と言ったものを私なりに比較してみると、
光秀は、美濃の名門、土岐氏の流れを汲む明智家の出身、儀礼典礼に詳しく、博識、性格は几帳面、所作も穏やか、ただ神経質。朝廷、室町幕府という、伝統の権威を復興させることで、世の中の安寧を目指す。
信長は、尾張守護代の家とはいえ、陪々臣、伝統や常識に逆らい、性格は荒く、所作も粗暴、気分屋。天皇は敬うものの、取り巻きの公家、寺社、守護大名など、既得権益にしがみつく輩を嫌い、すべてを一新し新し世の中を作る。
光秀は、乱世ゆえに、革新的なアプローチ、荒療治は必要であるとはわかっていて、信長に従っているし、尊敬もしていたが、信長も従来の権威復興によって、天下統一を進めていると信じていた。
信長は、天下統一の過程で、従来の権威を利用しているだけで、光秀もそれをわかっていて、その扱いに長けた光秀を重用している、いずれ従来の権威を壊すタイミングがくることを理解しているものと思っていた。
環境(情勢)としては、
北の上杉、浅井、朝倉、比叡山、東の武田、西には毛利、別所、機内には、本願寺、荒木、松永、雑賀など反信長勢力に囲まれている時は、苦しくとも一体感もあって、うまく行っていたのでしょう。横暴、パワハラが素晴らしいリーダーシップに思えていたことでしょうか。
その素晴らしいリーダーシップの下、
浅井、朝倉、別所、松永を滅ぼし、比叡山を焼き、荒木を追い、本願寺、雑貨を降伏させ、武田を滅ぼした頃には、毛利は秀吉が、上杉は柴田が追い詰めていましたし。同盟していたが関東の北条は、関東管領に就けた一益がこれから。四国の長曾我部は、信孝、長秀の遠征軍がすでに大阪に待機。
走りづくめだった光秀は、家康を安土に呼んで接待。
そこが、流れが止まったタイミングと思えます。
組織(周囲)の状況が好転したことで、一息ついたところで、
最初に書いたような背景、理由もひっくるめて、いろいろな事が、思い浮かび、思い出され、混乱し、心を病んで我慢の閾値が低下したのではないでしょうか。
閾値を超えるには、歴史家が考えるようなあれこれは必要なく、僅かな切っ掛けで済んだと思います。
現在、メディアでよく紹介されている、パニック障害も起きて、引き金になったかもしれません。
私は、うつになって以来(治ってからも)、あおり運転を紹介しているニュースをみることができません。
ニュースシーンだけで、20年以上前の首都高でトラックに横突されたことを思い出し、パニックを起こすためです。
下がった閾値が戻っておらず、他にも引き金がいろいろあって、急に過去の嫌な経験が襲ってくるので、抗不安剤を持ち歩く日常です。
私は、不幸中の幸い、うつ病のつらい時、衝動的に電車に飛び込むまではいきませんでしたが、光秀は飛び込んでしまう精神状態ではなかったのかと思います。
また、私はその頃、やるべきことを山ほど思いつくのですが、それまでは出来ていた綿密な計画、手順をたてられず、また、やらなければならないと思っていたことが、新しく思いついたことで上書きされ、焦るだけ焦って、何もできない、そしてできないことに傷つくという、まったく、収拾がつかない精神状態で、それが四六時中続き、眠ることすらできませんでした。
光秀ほど優秀で、几帳面な性格であれば、本能寺の変を起こすまでの計画、事後の計画など、綿密に立てられそうなものですが、たまたまの好機にめぐまれ、衝動的にやってしまったかのようで、事後、慌てて、取り繕うかの動きしかしていません(おそらく、それも自分で考えられず、利三、秀満などの側近にせかされてリアクションとして行っていただけでは)
自分の性格と光秀の性格、うつになった時の自分の行動、本能寺の変での光秀の行動は、非常に似たもののように思えます。
ずっと海外ビジネスに携わってきて、海外赴任から日本に帰ってきた自分が、未経験の職種について、その仕事をずっと日本でしていた上司のもと、いかにも日本の会社らしい、大企業病のような仕事をしなければならなくなり、死んでしまいたい想いにとらわれてしまった、急激な心の変化は、もし、本能寺の変の背景が私の想像したものであれば、時代の違いから、取った(取りそうだった)行動は違うとしても、光秀と同じであって、甚く同情するものです。
メンタルヘルスなどという考えが一般に認知されない437年前の悲しい話と考えます。
暗い話で失礼しました。
ではでは。
写真も楽しいです。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。