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大仏追善供養も午前10時15分頃になると、漁師さんたちによってお線香が大仏に供えられて行きます。この大仏は延享3年(1746年)の津波によって亡くなられた人々の供養のために建立されたものです。
そして文政7年(1824年)漁場の境界をめぐる争いの中で、船橋の漁師が相手方の侍を傷つけたため、漁師総代3人が入牢し、うち2人が亡くなるという事件が起こりました。津波で亡くなった人たちの霊とともに、この大仏供養が行われています。
文政8年(1825年)から行われているこの行事は、大仏に白米の飯を盛り上げるようにつけていきます。これは入牢した漁師総代が食をとるのも許されずに亡くなったのを償うためと伝えられています。
漁師が線香を上げ終わると、いよいよお櫃から白米をとり大仏につけて行きます。最初は中村繁久組合長です。
漁師さんが次々に白米を大仏につけていきます。
最初は遠慮がちに付けていたのですが、だんだんお体のあちらこちらに白米がつけられていきます。
漁師さんたちが白米をつけ終わると見学者の方もどうぞと言われたので、何人かの女性が参加しました。
ツレも最後に参加して白米を大仏につけていました。
お櫃の白米が無くなったのでこれで飯盛り大仏の行事が終了です。以前は大仏につけた白米を参加者が持って帰ったのですが、コロナの影響で持って帰るのは中止とのことでした。
持って帰った白米を食べると風邪をひかないという言い伝えがあるので、皆さんガッカリして帰って行きました。終了は午前10時28分、約30分間の江戸時代から続く貴重な行事でした。