勝ち組、勝ち組って何が勝ちなの?私には単なる拝金主義にしか思えない面があるように思います。
勿論極貧というのは余りに酷いと思います。そういう人々には社会的扶助が当然必要ですね。現に生活保護制度は政策的に用意されています。しかし、社会的扶助制度をよく知らずに、助けを求めることなく餓死している例も見受けられますが、それは制度上の欠陥というよりも、地域社会のコミュニケーションが崩壊していたり、互いの無関心が問題かもしれません。相談を誰にもすることができない、という人については、相談窓口等を利用してもらうように行政が努力するべきですね。
負け組って何でしょうか?全てではないでしょうが、「心が負け」なのではありませんか?
甲子園を目指す高校球児がいるとします。負け続ける高校の野球部員は「負け組」?レギュラーになれない部員は「負け組」なんですか?私は決してそんなことはないと思っています。目標や夢に向かって努力することが、無駄だとも虚しいとも思いません。たとえ甲子園に出られなくたって、ベンチ入りさえ出来なくたって、その部員が野球に打ち込んだことは意味があります。甲子園に出られる「成功者」(=勝ち組を支持する人々が言うところの「勝ち組」?ですか)は必ず存在しますが、それはほんの一握りですね。多くは途中で敗れ去っていきます。「夢」も打ち砕かれます。
でもこれは「格差」なのでしょうか?練習設備の整った常連の強豪校は、ずるいんですか?環境が優遇されているので、設備を他の学校に開放しろとでも言う?個人の能力が高く(多くの人が言う「才能」があるということですか?)、そういうハイレベルの選手が沢山集まってくる学校は、セレクションによって希望者全員が入れないので「格差」があり、これを平等にしろとでも言うのでしょうか?普通そういうことを言わないと思いますが。これが野球の競争ではなく、勉強だったら?これが「格差」とか「不公平」なんでしょうか。力量・能力があるのに弱小校にいる選手が甲子園に出られないとか、お金がないので私立の強豪校に入れないと、これは酷い格差なんでしょうか?
夢は甲子園出場だけれども、弱小無名校では可能性が低いし、同じ地区に有名強豪校があるので、まず無理だろうから、野球部には入っても仕方がないという見方の人もいるかもしれません(=甲子園に出られるのは成功者(勝ち組)だけであり、有名強豪校のレギュラー(勝ち組)以外はどうせ努力しても無駄なんだ)。でも、甲子園に出たいと思ったら、まず野球部に入ることから始めなければならないし、その中で一生懸命頑張って練習するしかありません。このスタートラインにつかない限り、何も起きません。試合に出ることも甲子園に出ることも絶対に起こりえないのですね。頭で考えて、どうせダメだから何もやらない、というのは意味がないのです。これは既にやる前から「負け組」です。一生懸命努力したのに部内の競争に勝てず、ベンチ入りもできなかったとしても、ある程度納得できるのではないでしょうか。本人の糧になるものがきっとたくさんあると思います。ですが、最初から何もせずに、甲子園に出られなかった人と、一杯練習して野球を頑張ったが出られなかった人と、どちらを選ぶかは個人の自由です。結果はどちらも「甲子園には出られなかった」という点で、同じですから。結果が全てというならば、どちらも同じということになりますから。そのような考え方は、私には理解できませんが。
一般に言う勝ち組って、要するに金を沢山持っていて、好きなことして過すとか、愛人作るとか、ゴルフ三昧とか、ブランド品をたくさん持てるとか、女子アナと合コンできるとか(笑)、そういうことを望んでいるんでしょうか?何が勝ちなの?単に心が貧しいだけなのではありませんか?金や物質的欲望に囚われているだけなのではありませんか?
人によって満足というか幸せの感じ方が違うと思いますが、高額な収入とか安定した生活が欲しいならば、それを獲得するべく行動が必要ですね。ある意味、競争者同士の人生の激突なのですから、それまでの生き方をかけて競争していくことになるかもしれません。そういうのがよくない、という意見の人は共産主義国に行くしかないのではないでしょうか。
小さな会社や個人商店にしても規制緩和で淘汰された個人は多いのでしょうか?規制緩和が悪者なんですか?例えば、昔あった金物屋は最近めっきり見なくなりました。大型のホームセンターにとって替わられました。これは規制緩和にはそれほど関与せず、相当以前に淘汰されていきました。
私が子供の頃、図工に使う針金を買いに金物屋に行くと、怪しげな禿げたオヤジが中から出てきて、「太さは?」とか聞くんですよ。それで私は「学校の図工に使うので、持ってこいって言われた。長さは40センチ」と言うと、大量に針金が巻いてある巨大な糸巻きみたいなのが天井からぶら下がっていて、何種類かあるやつの一つを無言でオヤジがひっぱり、ガラガラと巨大糸巻きが回って針金を引っ張り出す。そして、長さなんて当然測らずに目見当で、でかいペンチでぶっちんと切り、「長くしといた」と言う。確かに50センチくらいは有にあり、「やった!」と大きく得した気になったものです。それに、オヤジがそういう作業しているのを眺めていると、とても面白いんですね。狭くて薄暗くて汚い金物屋の中に並べてある(ドンキの圧縮陳列なんて目じゃないですよ、本当に。これで何処にモノがあるのか探せる方が凄すぎであり、人が1人通過するのがやっとの通路だった)色々な見たこともないようなネジとか蝶番とか雑多な部品などを見るのもまた、物珍しく非常に楽しいものでした。煙突の曲がりを買ってこいとか、5寸釘買って来いとか、剣先買ってこいとか言われて、そこの店に買い行くのはわくわくするような気持ちになったものです。
そんな金物屋は当然の如く廃業して、いつの間にか別な店に変わってしまった。それは、殆どの人が明るく広く便利なホームセンターで買うようになってしまい、いつの間にかその金物屋のことなど忘れてしまったからだ。これは、町の人達に責任があるのか?「不景気だねえ」とどの男性客にも言う、気のいい禿げたオヤジがこっそり出てくるような、ちょっと高いかもしれない小汚い金物屋が良かったのか、郊外に出来た大規模ホームセンターが良かったのかは、消費者が決めてしまう。もしも、本当にそういう昔ながらの店を皆が守りたいと思うなら、ホームセンターなんぞには行かずに金物屋で買い続ければ良かったのだ。だが、ホームセンターで買ってしまう。値段は安いし、何でもだいたいそろう。金物屋と植木屋とか別々に行く必要がない。町の人達は、これは規制緩和のせいだと言うだろうか?そんな言葉もなかった時代なのに?次は、酒屋が困るということなら、これも規制緩和のせい?米屋が生き残りのために、コンビニになってしまうのも規制緩和のせい?何だか、都合よく「規制緩和のせいだ」「弱者を巨大資本が飲み込んだ」「個人商店を潰したのは大規模店だ」というような理由が並べられるが、それならば、町の人達は全員そういう店に行かずに、昔ながらの店で買えば良かったんだよ。
こじゃれてパンとかスパゲッティなんぞ食べずに、高いかもしれないが米屋から米を買ってやればよかったのさ(米不足の時に国産米を調達してくれたのは馴染みの米屋だった)。”何とか電気店”みたいなちっぽけな個人がやってる店から、えらく高い扇風機を買ったり、真空管が壊れた家のテレビを修理してもらって使えばよかったじゃないか。壊れたドライヤーをハンダで直したりして使っていればよかったんだよ。大型量販店から全部買い換えたりしなけりゃいいじゃないか。畳屋が潰れないように和室を減らすことなく、フローリングも止めればよかったんだよ。穴のあいた鍋も溶接修理して使えばよかったんだよ、新たに買ったりせずに。今なら、環境にやさしいとか言ってるが、昔は何でも修理したり直したりして大切に使ってたじゃないか。リサイクルなんて当然だったろう?そういう生活様式を捨てて、安くて便利で簡単な方法を好んで今のような生活様式が生まれたんでしょ?大量生産、大量消費に加担したのは、自分達だ。多少不便でもコストが高くても、昔ながらのスタイルを捨てずに頑張れば、多くの個人商店は生き残れたかもしれない。だが、これを選択したのは、私達であり、消費者だ。巨大資本が、資本主義や競争原理が、潰したとばかりも言えないだろう。
”グローバルスタンダード”のせいで「負け組」を大量に作り出したり、国内の個人商店を潰すがイヤならさ、そういう商品を買ったりサービスを利用したり、便利さを享受したりせずに、頑として昔ながらの生き方を続ける運動を大々的にやればよかったんじゃない?多くの負け組が賛同してくれるから、そういう影響力を持てるだろう?負けた言い訳にしか聞こえないけどね。
個人商店だって、そういう変化にどう対応したか、経営者としてどのような戦略で臨んだか、そういったことが違いになっているだけなんじゃないのか。酒屋を早くにコンビニに業態転換して、数件のコンビニオーナーになっている人もいる。単に酒屋が潰れるという問題じゃない。規制緩和のせいばかりでもない。未だに魚屋でやっていける店もあるし、量販店にはない珍しい日本酒が置いてある酒屋もあるし、50年続いている高級でもないしょぼくれた和菓子屋もあるし、何故か潰れない(誰がそこで買っているのか分らないということ)靴屋もある(恐らくかばん修理とか靴修理とか皮製品修理とかで何とか?やっていけるんだろう)。
小さな虫には、それなりの生き方とか生存手段とか、色々あるだろうよ。生き物全てが鯨みたいにデカイ(コングロマリットみたいな大企業)とか、牛の大群(大資本の出店攻勢と似たようなもの?)みたいになっていないだろうよ。自分が生き延びる方法は、工夫すれば必ずある。小動物や鳥や昆虫や・・・色んな生き方があるでしょ?そりゃさ、牛の大群に、同じ土俵で戦おうってのは難しいと思うけど。突進してくる猛牛の大群に向かって、自分の牧草地を守ろうと立ちはだかっても、踏み潰されるだけかもね。でも、知恵は色々あるでしょう?
勿論巨大資本の大規模店がやってきて、地元商店街を殲滅していくケースもあるかもしれない。だが、これは消費者が選択した結果だ。地元商店街の存続よりも自分達の快適性や利便性や経済性を地域住民が選んだ結果なんじゃないのか。そういう生活を支持してきたのに、自分が困る立場になった時、「過酷な競争は資本主義のせいだ、規制緩和のせいだ」と反対するのも、どうかと思うのですね。
「ゆとり教育」は何を教育したか
格差社会について―NHK番組を観て
格差社会1
勿論極貧というのは余りに酷いと思います。そういう人々には社会的扶助が当然必要ですね。現に生活保護制度は政策的に用意されています。しかし、社会的扶助制度をよく知らずに、助けを求めることなく餓死している例も見受けられますが、それは制度上の欠陥というよりも、地域社会のコミュニケーションが崩壊していたり、互いの無関心が問題かもしれません。相談を誰にもすることができない、という人については、相談窓口等を利用してもらうように行政が努力するべきですね。
負け組って何でしょうか?全てではないでしょうが、「心が負け」なのではありませんか?
甲子園を目指す高校球児がいるとします。負け続ける高校の野球部員は「負け組」?レギュラーになれない部員は「負け組」なんですか?私は決してそんなことはないと思っています。目標や夢に向かって努力することが、無駄だとも虚しいとも思いません。たとえ甲子園に出られなくたって、ベンチ入りさえ出来なくたって、その部員が野球に打ち込んだことは意味があります。甲子園に出られる「成功者」(=勝ち組を支持する人々が言うところの「勝ち組」?ですか)は必ず存在しますが、それはほんの一握りですね。多くは途中で敗れ去っていきます。「夢」も打ち砕かれます。
でもこれは「格差」なのでしょうか?練習設備の整った常連の強豪校は、ずるいんですか?環境が優遇されているので、設備を他の学校に開放しろとでも言う?個人の能力が高く(多くの人が言う「才能」があるということですか?)、そういうハイレベルの選手が沢山集まってくる学校は、セレクションによって希望者全員が入れないので「格差」があり、これを平等にしろとでも言うのでしょうか?普通そういうことを言わないと思いますが。これが野球の競争ではなく、勉強だったら?これが「格差」とか「不公平」なんでしょうか。力量・能力があるのに弱小校にいる選手が甲子園に出られないとか、お金がないので私立の強豪校に入れないと、これは酷い格差なんでしょうか?
夢は甲子園出場だけれども、弱小無名校では可能性が低いし、同じ地区に有名強豪校があるので、まず無理だろうから、野球部には入っても仕方がないという見方の人もいるかもしれません(=甲子園に出られるのは成功者(勝ち組)だけであり、有名強豪校のレギュラー(勝ち組)以外はどうせ努力しても無駄なんだ)。でも、甲子園に出たいと思ったら、まず野球部に入ることから始めなければならないし、その中で一生懸命頑張って練習するしかありません。このスタートラインにつかない限り、何も起きません。試合に出ることも甲子園に出ることも絶対に起こりえないのですね。頭で考えて、どうせダメだから何もやらない、というのは意味がないのです。これは既にやる前から「負け組」です。一生懸命努力したのに部内の競争に勝てず、ベンチ入りもできなかったとしても、ある程度納得できるのではないでしょうか。本人の糧になるものがきっとたくさんあると思います。ですが、最初から何もせずに、甲子園に出られなかった人と、一杯練習して野球を頑張ったが出られなかった人と、どちらを選ぶかは個人の自由です。結果はどちらも「甲子園には出られなかった」という点で、同じですから。結果が全てというならば、どちらも同じということになりますから。そのような考え方は、私には理解できませんが。
一般に言う勝ち組って、要するに金を沢山持っていて、好きなことして過すとか、愛人作るとか、ゴルフ三昧とか、ブランド品をたくさん持てるとか、女子アナと合コンできるとか(笑)、そういうことを望んでいるんでしょうか?何が勝ちなの?単に心が貧しいだけなのではありませんか?金や物質的欲望に囚われているだけなのではありませんか?
人によって満足というか幸せの感じ方が違うと思いますが、高額な収入とか安定した生活が欲しいならば、それを獲得するべく行動が必要ですね。ある意味、競争者同士の人生の激突なのですから、それまでの生き方をかけて競争していくことになるかもしれません。そういうのがよくない、という意見の人は共産主義国に行くしかないのではないでしょうか。
小さな会社や個人商店にしても規制緩和で淘汰された個人は多いのでしょうか?規制緩和が悪者なんですか?例えば、昔あった金物屋は最近めっきり見なくなりました。大型のホームセンターにとって替わられました。これは規制緩和にはそれほど関与せず、相当以前に淘汰されていきました。
私が子供の頃、図工に使う針金を買いに金物屋に行くと、怪しげな禿げたオヤジが中から出てきて、「太さは?」とか聞くんですよ。それで私は「学校の図工に使うので、持ってこいって言われた。長さは40センチ」と言うと、大量に針金が巻いてある巨大な糸巻きみたいなのが天井からぶら下がっていて、何種類かあるやつの一つを無言でオヤジがひっぱり、ガラガラと巨大糸巻きが回って針金を引っ張り出す。そして、長さなんて当然測らずに目見当で、でかいペンチでぶっちんと切り、「長くしといた」と言う。確かに50センチくらいは有にあり、「やった!」と大きく得した気になったものです。それに、オヤジがそういう作業しているのを眺めていると、とても面白いんですね。狭くて薄暗くて汚い金物屋の中に並べてある(ドンキの圧縮陳列なんて目じゃないですよ、本当に。これで何処にモノがあるのか探せる方が凄すぎであり、人が1人通過するのがやっとの通路だった)色々な見たこともないようなネジとか蝶番とか雑多な部品などを見るのもまた、物珍しく非常に楽しいものでした。煙突の曲がりを買ってこいとか、5寸釘買って来いとか、剣先買ってこいとか言われて、そこの店に買い行くのはわくわくするような気持ちになったものです。
そんな金物屋は当然の如く廃業して、いつの間にか別な店に変わってしまった。それは、殆どの人が明るく広く便利なホームセンターで買うようになってしまい、いつの間にかその金物屋のことなど忘れてしまったからだ。これは、町の人達に責任があるのか?「不景気だねえ」とどの男性客にも言う、気のいい禿げたオヤジがこっそり出てくるような、ちょっと高いかもしれない小汚い金物屋が良かったのか、郊外に出来た大規模ホームセンターが良かったのかは、消費者が決めてしまう。もしも、本当にそういう昔ながらの店を皆が守りたいと思うなら、ホームセンターなんぞには行かずに金物屋で買い続ければ良かったのだ。だが、ホームセンターで買ってしまう。値段は安いし、何でもだいたいそろう。金物屋と植木屋とか別々に行く必要がない。町の人達は、これは規制緩和のせいだと言うだろうか?そんな言葉もなかった時代なのに?次は、酒屋が困るということなら、これも規制緩和のせい?米屋が生き残りのために、コンビニになってしまうのも規制緩和のせい?何だか、都合よく「規制緩和のせいだ」「弱者を巨大資本が飲み込んだ」「個人商店を潰したのは大規模店だ」というような理由が並べられるが、それならば、町の人達は全員そういう店に行かずに、昔ながらの店で買えば良かったんだよ。
こじゃれてパンとかスパゲッティなんぞ食べずに、高いかもしれないが米屋から米を買ってやればよかったのさ(米不足の時に国産米を調達してくれたのは馴染みの米屋だった)。”何とか電気店”みたいなちっぽけな個人がやってる店から、えらく高い扇風機を買ったり、真空管が壊れた家のテレビを修理してもらって使えばよかったじゃないか。壊れたドライヤーをハンダで直したりして使っていればよかったんだよ。大型量販店から全部買い換えたりしなけりゃいいじゃないか。畳屋が潰れないように和室を減らすことなく、フローリングも止めればよかったんだよ。穴のあいた鍋も溶接修理して使えばよかったんだよ、新たに買ったりせずに。今なら、環境にやさしいとか言ってるが、昔は何でも修理したり直したりして大切に使ってたじゃないか。リサイクルなんて当然だったろう?そういう生活様式を捨てて、安くて便利で簡単な方法を好んで今のような生活様式が生まれたんでしょ?大量生産、大量消費に加担したのは、自分達だ。多少不便でもコストが高くても、昔ながらのスタイルを捨てずに頑張れば、多くの個人商店は生き残れたかもしれない。だが、これを選択したのは、私達であり、消費者だ。巨大資本が、資本主義や競争原理が、潰したとばかりも言えないだろう。
”グローバルスタンダード”のせいで「負け組」を大量に作り出したり、国内の個人商店を潰すがイヤならさ、そういう商品を買ったりサービスを利用したり、便利さを享受したりせずに、頑として昔ながらの生き方を続ける運動を大々的にやればよかったんじゃない?多くの負け組が賛同してくれるから、そういう影響力を持てるだろう?負けた言い訳にしか聞こえないけどね。
個人商店だって、そういう変化にどう対応したか、経営者としてどのような戦略で臨んだか、そういったことが違いになっているだけなんじゃないのか。酒屋を早くにコンビニに業態転換して、数件のコンビニオーナーになっている人もいる。単に酒屋が潰れるという問題じゃない。規制緩和のせいばかりでもない。未だに魚屋でやっていける店もあるし、量販店にはない珍しい日本酒が置いてある酒屋もあるし、50年続いている高級でもないしょぼくれた和菓子屋もあるし、何故か潰れない(誰がそこで買っているのか分らないということ)靴屋もある(恐らくかばん修理とか靴修理とか皮製品修理とかで何とか?やっていけるんだろう)。
小さな虫には、それなりの生き方とか生存手段とか、色々あるだろうよ。生き物全てが鯨みたいにデカイ(コングロマリットみたいな大企業)とか、牛の大群(大資本の出店攻勢と似たようなもの?)みたいになっていないだろうよ。自分が生き延びる方法は、工夫すれば必ずある。小動物や鳥や昆虫や・・・色んな生き方があるでしょ?そりゃさ、牛の大群に、同じ土俵で戦おうってのは難しいと思うけど。突進してくる猛牛の大群に向かって、自分の牧草地を守ろうと立ちはだかっても、踏み潰されるだけかもね。でも、知恵は色々あるでしょう?
勿論巨大資本の大規模店がやってきて、地元商店街を殲滅していくケースもあるかもしれない。だが、これは消費者が選択した結果だ。地元商店街の存続よりも自分達の快適性や利便性や経済性を地域住民が選んだ結果なんじゃないのか。そういう生活を支持してきたのに、自分が困る立場になった時、「過酷な競争は資本主義のせいだ、規制緩和のせいだ」と反対するのも、どうかと思うのですね。
「ゆとり教育」は何を教育したか
格差社会について―NHK番組を観て
格差社会1